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有形文化財(考古資料)

公開日:2019年04月08日

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指定文化財解説 有形文化財・考古資料

智観寺板石塔婆 (県指定)

大字中山(なかやま)の真言宗智観寺(ちかんじ)には、3基の大型板石塔婆(いたいしとうば)が遺されています。現在は3基とも収蔵庫の中に納められています。これらを年代順に紹介します。

①仁治2年(1241)銘、高さ150㎝、石墨片岩
 仁治第二暦辛丑季冬 廿四日丁丑當悲母比
   丘尼名阿弥陀仏五七之 忌辰建弥陀三摩耶
 一基之石塔矣 

②仁治3年(1242)銘、高さ157㎝、石墨片岩
 仁治三年壬寅十一月 十九日當先孝聖霊
 丹治家季三十八年星霜改 葬之間建弥陀三摩
 耶一基之石塔矣 

③永仁6年(1298)銘、高さ180㎝、緑泥片岩
 永仁六年八月廿四日敬白 (紀年の左右に光明真言あり)

  仁治3年の板碑は、元久2年(1205)二俣川の戦いで討死した加治家季(かじいえすえ)の供養のために、その子助季(すけすえ)が建てたもの、仁治2年の板碑は助季が母の供養に建てたもの、永仁6年のものは助季のために建てられたものとそれぞれ考えられています。
  中世の武蔵武士を知る貴重な資料です。
智観寺板石塔婆

願成寺板石塔婆 (市指定)

大字川寺(かわでら)の真言宗願成寺(がんじょうじ)の墓地にある板石塔婆(いたいしとうば)です。内訳は次のとおりです。

①康安2年(1362)銘、高さ114㎝
  釈迦一尊種子(しゃかいっそんしゅじ)、契定禅尼の造立
②正安4年(1302)銘、高さ74㎝    釈迦一尊種子
③正嘉2年(1258)銘、高さ173㎝    阿弥陀一尊種子(あみだいっそんしゅじ)
④年号不詳、地上高161㎝    荘厳体(そうごんたい)の阿弥陀一尊種子
⑤貞治5年(1366)銘、高さ115㎝    阿弥陀一尊種子、沙弥希西の造立
⑥永徳2年(1382)銘、高さ166㎝    阿弥陀一尊種子 四部結衆(しぶけつじゅう)37人による造立
⑦建長5年(1253)銘、高さ135㎝    阿弥陀一尊種子 

これらは13世紀に出現し、14世紀中頃に最盛期を迎えています。市内を代表する初期板石塔婆群です。
願成寺板石塔婆

西光寺板石塔婆 (市指定)

大字原市場(はらいちば)の西光寺(さいこうじ)にある板石塔婆(いたいしとうば)は一群四基からなり、内訳は次のとおりです。

①正和元年(1312)銘、全長187cm(埋め込み部分含む)
 阿弥陀三尊種子(あみださんぞんしゅじ)、沙弥性円による造立

 ②正和4年(1315)銘、全長195.2cm(埋め込み部分含む)
 阿弥陀三尊種子

 ③正元2年(1260)銘、全長205.7cm(埋め込み部分含む)
 阿弥陀三尊種子
  
④弘長元年(1261)銘、全長255.5cm(埋め込み部分含む)で市内最大 
 阿弥陀三尊種子

 いずれも緑泥片岩が用いられています。

  ③、④は大きな額と素朴な種子を持つのに対し、ほぼ50年後に造立された①、②は月輪(がちりん)、蓮座(れんざ)、偈(げ)などに意匠をこらし優雅です。この二基ずつは形態、本尊、銘文、造立年代が近似しています。さらに半世紀たった1360年代に造立の動きは最盛期を迎えるので、これらは初期板石塔婆の指標とされ貴重です。
西光寺板石塔婆

野口家宝篋印塔及び銅板経ほか塔内納入品 (市指定)

野口家宝篋印塔
大字小瀬戸(こせど)の民家裏山に立つ宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、高さ163㎝の砂岩製です。基礎部には向かって正面に「千部供養」、左側面に「施主 野口忠左衛門」、裏面に「武州高麗郡 小瀬戸村」、右側面に「享保七寅 三月 日」(享保7年は西暦1722年)と銘文が刻まれています。塔身部には四面に金剛界四仏の種子が刻まれています。
野口家銅板経
塔内納入品は、塔身部を上下に貫通した直径10㎝の円形の穴に、銅板経(どうばんきょう)と青銅製小仏像が遺されていました。銅板経は縦23㎝、横4.6㎝、厚さ0.7㎜の銅板を13枚蝶番でつなぎ折本のようにたたむことが可能なものです。宝篋印陀羅尼(だらに)と造塔の趣旨(宝篋印塔を建て最上の功徳を得る)が彫られています。小仏像は千手観音と思われます。

施主の野口忠左衛門は小瀬戸村の名主を父に持ち、甥が名主になるとその後見役を勤めた人物です。

折本形式の銅板経は他に類を見ず、当時の名主層が遺した仏教関連の遺物として貴重な資料です。

八耳堂宝篋印塔及び銅板経ほか塔内納入品 (市指定)

八耳堂宝篋印塔
大字大河原(おおかわら)の八耳堂(はちじどう)脇に建つ宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、高さ377㎝の安山岩製です。基礎部は、向かって正面に宝篋印陀羅尼経(だらにきょう)を表す種子“シッチリヤ”、左側面に塔を礼拝供養することの功徳、裏面に宝篋印陀羅尼を誦することの福徳についての銘文が刻まれています。右側面には文化8年(1811)の紀年と造塔の趣旨(先祖の追善供養)のほか施主の名(中里善左衛門)が刻まれています。
八耳堂納入品
塔身部には四面に金剛界四仏(こんごうかいしぶつ)の種子が刻まれ、中に次のものが納められていました。
・銅板経(どうばんきょう) 3枚
                             (赤い漆で宝篋印陀羅尼を書いたもの)
・金剛界五仏の種子を墨書した和紙 5枚
・位牌を印刷し逆修供養した和紙 1枚
・銅板 1枚(赤い漆で大日如来の種子を書いたもの。)
・舎利 5粒(石英質の石粒)
・焼土
また、反花座(かえりばなざ)基礎と基壇の間から鉄製品(剣などの形をしたもの)4点、寛永通宝4枚も発見されました。

銅板経には施主の金蔵寺の名も記されており造塔に大きく関与していると考えられます。近世宝篋印塔造立の実態を知る上で重要な資料です。

宝蔵寺一字一石経 (市指定)

大字中山(なかやま)の曹洞宗宝蔵寺一字一石経(ほうぞうじいちじいっせききょう)は、宝蔵寺本堂改修時に須弥壇(しゅみだん)直下の土坑から発見された経塚です。

経石は、川原石に法華経を写経したもので、石1個に1字を書写したものが大半ですが、一部には複数の文字を書写したものもあります。また、地蔵菩薩、蓮華台等を描いた経石もあります。礫は偏平なものを使用しています。

この経塚からは宝蔵寺経塚写経のいわれを書いた願文石が発見されています。寛文9年(1669)に本堂が腐朽したため改修することになり、住職が写経を願い、多くの人々によって写経が行われたことが書かれています。本堂の地鎮、現世利益を目指した経塚であるというが分かります。

願文石の文は次のとおりです。

「武州高麗郡下加治村清雲山宝蔵禅寺者洞家之古禅刹也 既年月深遠而殿宇頽落 □寛文己酉冬現住比丘文澤与諸壇計再修梁柱且屈請十餘輩之門衆書写大乗妙典一字一石而 以埋堂下伏望以此功力山門繁昌起居多福也」
宝蔵寺一字一石経

島崎家五輪塔 (市指定)

島崎家五輪塔(しまざきけごりんとう)は。高さ59㎝を測る砂岩製の石塔です。下から地輪・水輪・火輪・空風輪の順で積み上げられ、破損もなく完全な形で遺っています。

地輪から空風輪までの各部材の四面には、それぞれ発心・修業・菩提・涅槃と字体を変えた五大(地・水・火・風・空)の種子が刻まれています。地輪には供養の対象となった人物の法名である「比丘尼心蓮」と刻まれています。また、年号「建武元年 六月四日」も刻まれています。これらの銘文から鎌倉幕府が滅亡した翌年(1334年)に、ある女性の供養のために建てられた石塔であることが分かります。

島崎家五輪塔が遺されていた正願寺(しょうがんじ)墓地の墓塔群は、近世に願成寺(がんじょうじ)の墓地から移されたと言われています。その中に島崎家五輪塔が含まれていたとしますと、島崎家五輪塔の造塔者も願成寺板石塔婆(いたいしとうば)の造塔者と同じく、願成寺を菩提寺としていた武士団の一員であった可能性があります。

島崎家五輪塔の建武元年という年号は埼玉県内で三番目に古く、最初期の中世五輪塔が完全な形で遺されていたという点でも大変貴重です。
島崎家五輪塔

見光寺宝篋印塔 (市指定)

大字岩沢(いわさわ)の曹洞宗見光寺宝篋印塔(けんこうじほうきょういんとう)は、高さ132㎝を測る安山岩製の石塔です。下から反花座・基礎・塔身・笠・相輪の順で積み上げられ、笠部の隅飾突起が一部欠ける以外は完全な形で遺っています。塔身部四面に金剛界四仏の種子が刻まれていますが、他に銘文は見当たらないため、造塔者名・造塔の趣旨・造塔年月日は不明です。ただ、その大きさと形状が埼玉県内の中世宝篋印塔の中でも14世紀後半のものに類似することから、造塔の年代は14世紀後半と推測されます。

見光寺には旧地蔵堂の本尊と伝えられる木造地蔵菩薩坐像があります。見光寺宝篋印塔と同じく南北朝時代から室町時代初期のものであり、この時期に見光寺もしくは地蔵堂を中心とした宗教活動が活発なものであったことがうかがわれます。こうした宗教活動は、加治氏(高麗郡加治郷に住んだとされる鎌倉幕府の御家人)の子孫が関わっていた可能性が考えられます。

このように見光寺宝篋印塔は、中世宝篋印塔の遺例として貴重なだけでなく、14世紀後半の宗教活動の実態を考える上でも重要です。
見光寺宝篋印塔

町田家阿弥陀三尊庚申講供養図像板碑 (市指定)

町田家阿弥陀三尊庚申講供養図像板碑 (まちだけあみださんぞんこうしんこうくようずぞういたび)は高さ120㎝、幅40cm、厚さ3.5㎝の緑泥片岩で造られた阿弥陀三尊の図像板碑です。図像は、線彫りの蓮座上に正面を向き来迎印(らいごういん)を結ぶ阿弥陀如来を本尊とし、脇侍として未敷蓮華(みふれんげ)を持つ観音菩薩像と合掌した勢至菩薩像が彫られています。上部には横幅いっぱいの立派な天蓋(てんがい)と、下部には花瓶(けびょう)・香炉・燭台の三具足(みつぐそく)と前机が彫られています。

残念ながら、上部の山型の一部に欠損と剥離があり、根部も欠失、中央に直径6㎝の丸い穴が2か所あいています。また下部の前机の下が剥離していることから紀年銘が辛うじて「□正元□」としか判読できないため、この板碑が作られた正確な年代は不明です。ただ、形式と確認できる紀年銘の残存部分から考えて15世紀中ごろの作と推測されます。

市内では唯一ほぼ完品に近い状態で遺されている図像板碑であるとともに、市内最古の庚申講供養板碑である可能性が高い貴重な資料です。 

(名栗地区行政センター内に展示されています。)

堂ノ根遺跡1号住居跡出土遺物 (市指定)

堂ノ根遺跡(どうのねいせき)は、大字芦苅場(あしかりば)に所在する遺跡です。平成元年に行われた第1次発掘調査により、奈良時代初頭の住居跡が1軒発見されました。その際に、常陸(ひたち)国(現在の茨城県周辺)で生産された土器が出土しました。これらの常陸産土器は、高麗郡(こまぐん)建郡当時の当地域を知る上で重要な資料です。

高麗郡は、今から1,300年前の霊亀(れいき)2年(716)に建郡されました。そのことが記された歴史書『続日本紀(しょくにほんぎ)』には、当時、常陸国を含めた関東周辺の七ヶ国から高麗人を移住させ高麗郡を設置した旨の記述があります。堂ノ根遺跡で出土した土器には、常陸国産が含まれていることから、常陸国周辺から土器と共に移住した人々がいたことの裏付けとなります。出土した土器によって歴史書の記述が実際に証明されたこととなったことから、これらの遺物は古代史の謎を解明する貴重な「物証」となりました。

指定された出土遺物は、破片も含めて総点数208点(うち常陸産80点)から成っています。内訳は、以下の通りです。

・須恵器(すえき)…坏(つき) 10点、蓋(ふた) 8点、甕(かめ) 5点 
・土師器(はじき)…坏 34点、甕 151点 

 これらは当地域の古代史を解明する上で不可欠であり、とても重要な資料です。
堂ノ根遺跡遺物
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