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博物館周辺の歴史巡り「幕末を訪ねるコース」

公開日:2018年11月08日

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幕末の遺産を訪ねるコース

戦国時代の遺産を訪ねるコース(ファイル名:1298534f198db.pdf サイズ:2106.18KB)

①飯能市立博物館

 博物館の「町」ゾーンでは、幕末に関係する2つのコーナーをご覧ください。

  • 飯能市立博物館

  • 歴史展示室「町」ゾーン幕末の展示

①武州世直し一揆
 慶応2(1866)年6月14日に上名栗村名郷の農民たちが米の安売りなどを求めて飯能の米穀商などを打ちこわしたことを発端に、武蔵国17郡、上野国2郡にまで広がった事件です。この時期は、第二次長州戦争が起きている時期で江戸は手薄でした。これが江戸幕府の崩壊を早めた要因の一つといわれています。



②飯能戦争
 慶応4年5月13日に、彰義隊から分かれた振武軍を中心とする旧幕府方と明治新政府方との間で行われた戦闘をいいます。戊辰戦争の局地戦と位置づけられ、埼玉県内では唯一、戊辰戦争の戦場となりました。

能仁寺

 飯能戦争で、振武軍の頭取であった渋沢成一郎(渋沢栄一の従兄弟)が本陣を置いた場所で、明治新政府軍のうち、大村(現在の長崎県)・佐土原(現在の宮崎県)・備前岡山藩の3つの藩兵が攻撃し、本堂などが炎上、焼失しました。
 現在、本堂向かって左手の開山堂の前には振武軍の碑が立っています。この碑は、昭和12(1937)年5月23日、飯能戦争が起こった日に合わせ、地元有力者、説経節関係者、振武軍関係者の子孫などを発起人として、建碑されたものです。
能仁寺本堂
能仁寺本堂
振武軍の碑
振武軍の碑

③小川香魚の碑

小川香魚の碑
 慶応3(1867)年末に倒幕を画策していた薩摩藩では、西郷隆盛の命を受けた伊牟田正平、益満休之助などが江戸市中の攪乱活動を展開していました。それに力を貸したのが江戸周辺の出身で尊皇思想をもつ農民たちで、薩摩藩邸に出入りし薩邸浪士隊と呼ばれていました。小川香魚もその1人です。
 同年12月25日に庄内藩以下4つの藩が三田の薩摩藩邸を焼き討ちし、小川香魚はそこを逃れたものの、川越近くの砂村で川越藩兵に追い詰められ自刃しました。
 この碑は、大正元(1912)年11月に小川香魚に対し従五位が追贈されたことを記念して建てられました。

④天覧山

天覧山

 日の出町の三宅家文書によると、飯能戦争の際、愛宕宮のところ(天覧山頂上)へ大杉丸太4本押し立てて高さ4丈(12m)ほどの櫓を作り、大旗を立て、引き上げの節は黄色のノロシを上げたので、振武軍らは一手に集まって引き揚げ、四ッ半時(午前10時前後)秩父大宮へ落ちていったとされています。
 ここでは市街地と新政府方が駐屯した扇町屋を見通せるので、振武軍頭取渋沢成一郎になったつもりで、飯能戦争を回顧してもらうのもよいかもしれません。


⑤飯能河原

飯能河原

 今では飯能を代表する観光地の一つとなっていますが、慶応2年6月14日に起こった武州世直し一揆では、その前日に上名栗村から出てきた一揆勢が集結した場所でした。

 その数は、300人とも500~600人ともいわれています。


⑥店蔵絹甚

絹甚
  ここには直接、幕末に関わるできごとはありませんが、向かい側のマンションのところには、かつて田中一誠堂という商家がありました。幕末、田中家は旅宿を営んでおり、入間川上流の唐竹や赤沢で尊皇思想の出張講義に出向いていた国学者井上頼圀がここを定宿としていました。
 ちなみに田中家の娘かくは、明治になって東京に出て、日本の女医第一号の荻野吟子とともに井上頼圀の下で学びました。

⑦中清米店

中清米店
 広小路から飯能高校へ向かう道(通称「飯高通り」)に面した中清米店の袖蔵は、慶応2年6月の武州世直し一揆の際には、既に存在していたことがわかっています。
 その2年後、現在の市街地は飯能戦争の戦場となっていることから、この袖蔵はその戦火をくぐり抜けた貴重な建造物で、漆喰の建物が火災にいかに強いかを今に証明しています。

飯能戦争とは・・・

 慶応4(1868)年正月の鳥羽・伏見の戦いで敗れ、「朝敵」となって江戸に戻った徳川慶喜は、上野の寛永寺に謹慎しました。一橋家の家臣を中心とする旧幕臣たちは、主君の汚名をそそがんと「彰義隊」を結成し、上野の山に入りました。しかし彰義隊の頭取であった渋沢成一郎は、副頭取の天野八郎らと対立し上野を去り、五月初旬に田無村(西東京市)で「振武軍」を結成します。
 300人ほどとなった振武軍は、田無で周辺の村々から4,000両を超える軍資金を調達し、箱根ヶ崎村に移ります。その後、新政府方の攻撃を受けた彰義隊の援軍に江戸へ向かいましたが間に合わず、田無で上野戦争の残党などと合流して、5月18日に飯能の町に入ります。振武軍など旧幕府方は、能仁寺を本営に、智観寺・広渡寺・観音寺など6つの寺に駐屯しました。
 一方、明治新政府は、福岡・久留米・大村・佐土原・岡山の5つの藩に旧幕府方の追討を命じ、これらの藩兵は5月22日扇町屋(入間市)に入ります。そして翌23日未明、笹井河原(狭山市)で旧幕府方と佐土原藩兵が遭遇して戦争が始まり、午前6時頃には飯能の町も戦場となりました。
 この結果、200軒の民家と能仁寺、智観寺など4つの寺が焼失し、飯能を舞台にした戊辰戦争(飯能戦争)は、わずか半日ほどで新政府方の勝利に終わりました。


おでかけガイドマップ 飯能戦争の跡をたずねるコース(ファイル名:1144980163831.pdf サイズ:5922.71KB)

この記事に関するお問い合わせ 博物館
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