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もっと詳しく!飯能戦争①「御用留」(赤沢村浅見家文書)

公開日:2021年01月06日

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「御用留」(赤沢村浅見家文書)

 「御用留」とは、名主などが領主からの触や達及び村から領主などに出した願や届などを書き留めたものです。この史料には、元治元(1864)年に一橋徳川家の家臣となっていた渋沢成一郎と渋沢篤太夫(栄一)が、6月13日に熊谷を出立して高麗郡までやってくるので人足7人を用意しておくようにとの先触が書き写されています。

 飯能戦争の旧幕府方の1つである振武軍頭取となった渋沢成一郎は、このときに原市場や下直竹などにやってきたと思われ、飯能の「町」周辺地域の状況を多少なりとも理解したと思われます。実際に渋沢自身は後年、地理を知っているから飯能に向かったと語っています(『藍香翁』)。

浅見家文書

振武軍が飯能を選んだわけ

 振武軍などの旧幕府方が飯能にやってきたわけについては、これまでも多くの方から質問を受けてきました。上記の渋沢の発言を除けば、このことについて明確に記しているものはありません。ただ、渋沢は箱根ヶ崎に宿陣した際、御岳に向かうことを考えていましたが、そこの食糧は扇町屋から運搬しているので不可能、と西分村名主浜中良亮らに諭され断念しています。また、振武軍など旧幕府方は上野戦争後の5月17日に田無を出発しますが、1隊は所沢を通って、もう1隊は箱根ヶ崎を経由して扇町屋を通り飯能に来ていることから、田無にいた時には、飯能に向かうことを決めていたことになります。

 御岳と飯能の共通点はそこが山間地域もしくはその入口であることから、渋沢らが当初から山間地を根拠地にしようと考えていたことがわかります。5月16日以降の新政府方の追撃が予想される切迫した状況下で彼らが飯能を選んだのは、田無から近くかつ地形的には山がちであって、しかも兵糧の調達が可能な場所(飯能では六斎市が開かれ米穀が集まった)だったこともあったのではないでしょうか。


※本ページは「That's郷土館平成24年1月号」を転載したものです

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