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もっと詳しく!飯能戦争②「御用向扣帳」(小川村小川家文書)

公開日:2021年01月06日

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「御用向扣帳」(小川村小川家文書)

 第2回目は、東京都指定文化財になっている小川村小川家文書の中にある「御用向扣帳」をご紹介します。

 この文書は、平成23年度特別展「飯能戦争」の調査の中で最も大きな発見の1つであったといえるでしょう。何故なら、振武軍が田無村にいた慶応4(1868)年5月12日までの間、小川村を中心とする周辺地域に対し具体的にどのような働きかけをしていたのかが非常によくわかるからです。実は西東京市には、田無村組合の惣代名主であった下田家に古文書が伝来しているのですが、飯能戦争が起きた慶応4年前後の史料に限ってはほとんど残っていません。小川家文書はその間隙を埋め、小川村という青梅街道上の「定点」から飯能戦争を記録したものということができます。

 この慶応4年の「御用向扣帳」には、名主が領主などからの触や達などが書き留められています。この中で振武軍に関する記述は、5月2日に振武軍隊長より田無村組合の村々に印形(印鑑)をもって田無村まで来るようにとの指示があったことを伝えた廻状から始まっています。それが軍用金の徴集だったことは、村々からの金子持参や納入が済んでいない金の督促などの記述が続くことからうかがえます。

 振武軍は5月12日に箱根ヶ崎に移りますが、その途中にあたる小川村での休憩場所の確保、人足・馬の手配、さらには振武軍の幹部の名前、そして上野戦争が始まったことを聞いた振武軍が箱根ヶ崎より江戸に戻ろうとしている切迫した状況などが続きます。上野戦争終結後の5月17日、旧幕府方は田無を出て飯能へ向いますが、その弁当の手配を最後にこの「扣帳」から振武軍の名前が見られなくなります。そして5月21日、彼らを追討するため青梅街道を進み田無村に入ったのが、新政府方の下参謀渡邊清左衛門率いる大村藩など4つの藩兵だったのです。


※本ページは「That's郷土館平成24年2月号」を転載したものです。

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