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もっと詳しく!飯能戦争④振武軍・「会計方」と「目付方」

公開日:2021年01月06日

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振武軍・「会計方」と「目付方」

 上野の彰義隊から分かれた渋沢成一郎たちは、田無村に集まり「振武軍」と名のります。高岡槍太郎の「戊辰日誌」によると、それは慶応4(1868)年閏4月19日のこととされています。これが飯能戦争において、幕府方の主力とされる振武軍の誕生です。

 その後、振武軍は周辺の村々に対しさまざまな働きかけをしていきます。そのことは、振武軍が差しだした文書の存在によって裏付けられます。その数は、写も含めて20点で、5月2日付のものが初出に、壊滅する前日の5月22日までの約3週間にわたっています。

 その文書を作成したのは、振武軍の2つの組織、「会計方」と「目付方」で、数はそれぞれ10点ずつとなっています。それらをみると会計方は、軍資金の受取(領収書)やその督促などその名の通り軍費の調達に関わることを司り、目付方は、田無や箱根ヶ崎に設けられた屯所へ名主たちを呼びつける主体となっていました。ただし、そこに捺された黒印は、どちらも同じものです。

 考えてみれば、名主など村役人を呼びつけるのは、ほとんどが軍資金の供出を命じるためだったと考えられるので、その点からするとこの2つの組織の役目に大した差はないようにも思われます。実際、目付方で軍用金納付の催促をし、会計方では移動する途中での昼食と休む場所の用意を村に命じる、という文書も残っています。これらからは、急ごしらえの組織の曖昧なあり方がうかがわれます。



※本ページは「That's郷土館平成24年5月号」を転載したものです。

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