子育て・教育

史跡・名勝・旧跡・重要遺跡

公開日:2019年04月08日

印刷する

指定文化財解説 史跡・名勝・旧跡・重要遺跡

中山信吉墓 (県指定・史跡)

中山信吉(なかやまのぶよし)の墓は、直径約15メートル、高さ3メートルの塚を築き、その上に高さ3メートル余の宝篋印塔(ほうきょういんとう)を置いたものです。信吉は65歳で亡くなったのち能仁寺に葬られていましたが、2年後の寛永21年にこの地に移されました。宝篋印塔には、「源盛院殿道立心圓居士 寛永十九壬午歳正月六日」・「従五位下丹治信吉中山備前守」の銘が刻まれています。

信吉は、豊臣秀吉の小田原攻めの際、八王子城で自刃した中山勘解由家範(なかやまかげゆいえのり)の次男として天正4(1576)年に生まれました。後に、兄の照守(てるもり)とともに徳川家康に仕えました。慶長14(1609)年に家康の第11子である頼房(よりふさ)を藩主として水戸藩が創設されると、その付家老(つけがろう)となり1万5千石の知行をあてがわれました。また信吉は頼房の後嗣に光圀(みつくに)〔水戸黄門のモデル〕を推挙したことでも知られています。

中山家の当主は、信吉以降も代々水戸藩の付家老を務めました。智観寺には2代信正、4代信行を除く中山家の当主及びその妻、分家の人たちが葬られており、この中山家の墓域は近世の大名墓として貴重な遺構ということができます。

なお、この中山家を縁に飯能市と中山家の領地があった茨城県高萩市との間で平成15年に友好都市提携が結ばれています。
中山信吉墓 (県指定・史跡)

石灰焼場跡 (県指定・史跡)

石灰焼場跡(せっかいやきばあと)は、大字上直竹下分(かみなおたけしもぶん)間野地内にあります。直竹川に臨む面積46㎡の原野で、山林の裾に約3.5mの石垣が積まれています。江戸時代には、この地で石灰が焼かれていました。

石灰焼事業は、慶長年間(1596~1615)に始められたと言います。当時、江戸の建設に当っては多くの資材を必要としました。当地の石灰も青梅街道で江戸に送られました。石灰運上(うんじょう)は、慶長年間の江戸城修築をはじめ、上野孔子堂、川越、日光など幕府の手になる工事に送られ、その数量は平年で3,000俵余とされました。これには幕府も保護を加え奨励していました。

焼き方は、平らな場所の一方に石垣を設けて本山(もとやま)を築きます。焼く時は、木材で方5間の枠を組み、枠内に粗朶(そだ)を積み上げて水をかけてアク抜きをし、その上に砕いた石灰岩を山形に積み上げ火を入れます。これには多くの技術と経験を必要とされています。この本山で一度焼くのに要した人夫の数は1,800人と言われており、当地を支える主要な産業の一つでした。
石灰焼場跡 (県指定・史跡)

観音窟石龕  (県指定・史跡)

観音窟石龕(かんのんくつせきがん)は、吾野駅そばの法光寺(ほうこうじ)の裏側より山を登ることおよそ500m、頂上近くの隅に自然にできた「岩殿観音窟」と呼ばれる石灰岩の洞窟の中にあります。 

もとは行基菩薩(ぎょうきぼさつ)の手彫りになる十一面観音像を安置した霊場と言われますが、貞和2年(1346)に比丘元燈がこの山の霊感に打たれ、数百人の協力を得て石龕を造営したと伝えられています。

石龕は緑泥片岩(りょくでいへんがん)で囲まれた四角塔の厨子で、石門と石柵を巡らした仏教遺跡としては類例の少ないものです。今日、貞和2年銘の扉と思われるものが法光寺に保管されています。

また、窟内には多数の板石塔婆が残されています。主なものとしては、
 (1) 聖法禅尼造立による貞和2年(1363)のもの。
 (2)比丘元燈が両親の三三回忌にあたる貞治6年(1367)に建てたもの。  
などがあり、特に(2)は「霊位」という碑銘であり、他に類例のない珍しい形式です。
観音窟

本橋渓水筆塚 (県指定・史跡)

大字中山(なかやま)の加治神社(通称:中山の天神様)の境内に「筆塚」と書かれた碑が建っています。この碑が本橋渓水筆塚(もとはしけいすいふでづか)と呼ばれる顕頌碑です。

渓水は名を文明といい、天明3年(1783)に中山の陽雲寺(廃寺)に生まれました。幼いときから学問を好み、特に書道に優れていたと伝えられています。18歳のときに起こした寺子屋には、中山、中居、宮沢、飯能などから多くの弟子が集まり、特に、文化・文政から天保(19世紀前半)にかけては最も盛んでした。門人は200名余り、教科は書道、素読(そどく)、算学などで、時には今の遠足のように山野に出かけて風物に接し楽しんだと言われています。また学舎の一部を宿舎とし、師弟が寝食を共にしたとも言われています。

嘉永4年(1851)に69歳で没しましたが、七回忌にあたって子弟が集まり、師の筆を埋めて塚を造り、碑を建てました。それがこの筆塚です。  

当時の教育の姿を今日に伝える史跡です。
本橋渓水筆塚

多峯主山黒田直邦墓 (市指定・史跡)

多峯主山黒田直邦墓(とおのすやまくろだなおくにはか)は、多峯主山頂近くにあります。直邦を葬った地点に自然石を置き、石柵を設け、その前に高さ1.13mの墓碑が建てられています。墓碑の中央には「萬松院殿故中太夫捨遺兼豊前州大守丹治真人関鉄直邦大居士 享保二十年乙卯三月二十六日」と刻まれています。また、墓前右手には太宰春台(だざいしゅんだい)(1680~1747)の撰ならびに書になる頌徳碑があります。

黒田直邦は、寛文6年(1666)に中山直張(なおはる)の三男として生まれ、外祖父の黒田直相(なおすけ)に養育されたことから黒田氏を称しました。5代将軍綱吉に仕え30人扶持を拝したのが出世の始まりで、その後、常陸国(茨城県)の下館(しもだて)城主となりました。享保8年には奏者番(そうしゃばん)となり寺社奉行を兼ねるまでに出世しました。晩年は、上州(群馬県)の沼田城主(3万石)となりましたが、享保20年2月に病にかかり、3月に70歳で没しました。 

直邦は、宝永年間には飯能地方を領し、菩提寺の能仁寺を中興するなど当地の発展に貢献しました。なお、享保4年(1719)春に飯能を訪れた記録が残されています。
黒田直邦墓

鯉ヶ久保池 (市指定・史跡)

鯉ヶ久保池(こいがくぼいけ)は、大字芦苅場(あしかりば)の鯉ヶ久保にあります(現在はゴルフ場の中になっています)。昔、ここに大きな鯉がいたので、鯉ヶ久保と呼ばれるようになったと伝えられています。 

地下からの湧水を湛えた池で、面積は約2haです。古くから、芦苅場村をはじめ、馬引沢村、田木村、上大谷沢村、下大谷沢村、中沢村(以上、日高市)、笠幡村(川越市)の合計7ヵ村により、灌漑用水として維持されてきました。

一説には、正徳元年(1711)に芦苅場村の代官・酒井因幡守(いなばのかみ)が、関係7ヵ村に命じて桶管(ひかん)その他を修理したとあります。幕府もこの溜池の重要性を認めていたようで、寛政12年(1800)には文書をもって7ヵ村民を激励し、享和年間(1801~1803年)に改修が行われました。その後、昭和15年には村民自らが改修工事を実施しています。

現在は市の所有となり、今も灌漑用水として重要な役割を果たしています。
鯉ヶ久保池 (市指定・史跡)

本郷大六天青石塔婆と樫樹 (市指定・史跡)

市立飯能西中学校の校庭の南側に、こんもり茂った大樹と、二基の板石塔婆が建っています。ここが市指定史跡の本郷大六天青石塔婆と樫樹(ほんごうだいろくてんあおいしとうばとかしのき)です。

木の樹種は、白樫で目通り5.2m、根回り8.3m、高さ約5mあり、幹は落雷によると思われる大きな裂け目ができて空洞になっています。

樫樹の根元に食い込んだ2基の板石塔婆は、東向きです。どちらも頂部は尖っていて二条線の下に額部をもつ形態や阿弥陀三尊種子などが近似しています。摩滅によって像立年代は明らかではありませんが、原市場西光寺にある1260年代前後の初期板石塔婆に、これらは類似していると考えられています。

この板石塔婆には、畠山重忠の墓という伝説もあります。それによれば、元久2年(1205)相模国(神奈川県)の二俣川(ふたまたがわ)村で討死した畠山重忠(はたけやましげただ)の遺骸を秩父に返そうとしていたところ、当地に差し掛かったところで何故か車が動かなくなりました。不思議に思った従者は、重忠の霊がここに留まりたいのだろうと察してこの地に葬ったとのことです。 

なお、史実において重忠は、二俣川の地に葬られています。
本郷大六天

双柳の浅間塚 (市指定・史跡)

双柳の浅間塚(なみやなぎのせんげんづか)は、直径東西31m、南北34m、高さ5mの円墳状をしています。双柳浅間神社地内にあり、以前はその周辺に小さな塚が幾つかあったと伝えられています。

頂上は削られており、東西9m、南北8mの平坦地に浅間神社を祀っているため「浅間塚(せんげんづか)」といわれています。

江戸時代の地誌である『新編武蔵風土記稿』(しんぺんむさしふどきこう)では、この塚を「こめ塚」と呼んでおり、「正治元年(1199)青木氏族討死の者を埋めし所なりと云、然らば籠塚と書くべきならんに、里民文字を伝へず。秀常寺の持なり。」と記されています。

また『飯能郷土史』には、「正治元年源頼家が安達景盛を討とうとして挙兵した時、飯能の加治氏は青木氏と景盛の陣に加わり武蔵野に合戦して破れ、一族がこれに殉じた。こめ塚は千人塚ともいって、この騒動で討死した者を葬ったところ」と記されています。
浅間塚

能仁寺中山勘解由三代の墓 (市指定・史跡)

中山氏は、鎌倉時代の加治家季(かじいえすえ)の子、助季(すえすえ)が中山の地に住み始めて氏を名乗ったとされています。また、中山宗家を継ぐものは勘解由(かげゆ)を称しています。

歴代の中山宗家の中でも家勝(いえかつ)、家範(いえのり)、照守(てるもり)の三代は、戦国末期から江戸時代初期の戦乱期に活躍した武士として知られています。また、家勝は飯能諏訪神社の勧請や能仁寺の開基として、家範はその中興に力を尽くした人としても知られています。

能仁寺本堂西墓地の階段右側に並ぶ三代の墓は、上段より、家勝(天正元年(1573)7月没)、家範(天正18年(1590)6月没)、照守(寛永11年(1634)2月没)と縦列に建立されています。

家勝の墓は、高さ1.5mの自然石で「能仁寺殿大年全椿大居士」と刻まれています。家範の墓は、高さ1.45mの自然石で「獅飜院殿本室宗無大居士」と刻まれています。照守の墓は、高さ1.93mの無縫塔(むほうとう)で「無相院殿加山宗印大居士」 と刻まれています。

室町から江戸時代初期の郷土武人の墓として貴重です。
中山三代墓

中島たつ墓 (市指定・史跡)

中島たつ墓は、大字南川(みなみかわ)孝行山の麓にあります。墓石は高さ57㎝の自然石です。 

昭和17年に県指定史跡となり、当時の吾野村教育委員会によって、字久通(くづう)の道端に顕彰碑が建立されています。碑文によりますと、中島たつは、天保3年(1832)に秩父の芦ヶ久保村(現横瀬町)に生まれました。4歳で母と一緒に南川村の元治郎宅に入籍、養父の下で子どもながらも家内労働によって生計を支えました。成長して夫を迎えましたが離別となったため、子どもを懸命に養育したそうです。この話が、上州(群馬県)岩鼻代官所に伝わり、金一封を賜りました。その金でたつは山林を購入しました。その山林を人々は「孝行山」と呼んだそうです。明治31年(1898)に65歳で没しました。 

なお、昭和36年に県指定は解除されましたが、翌37年に市指定となりました。
中島たつ墓

千葉歳胤墓 (市指定・史跡)

千葉歳胤(ちばとしたね)は、正徳3年(1713)に今の大字虎秀(こしゅう)に生まれ、通称を助之進といい陽生と号しました。早くから数理や天文のことに興味を寄せていましたが、江戸に出て天文学者・中根元圭(なかねげんけい)に学び、次いでその高弟・幸田親盈(こうだちかみつ)に師事し、天体の運行を独特の数理によって割り出し、絶えず精密な観測を行い、ついに天文暦術界の権威者となりました。

歳胤は、幕府天文方の渋川氏を助けて、『蝕算活法率』185巻、『皇倭通暦蝕考』3巻など、およそ30部200巻近い書物を遺しましたが、その内容は主として日月蝕や暦についての研究であり、江戸時代中期の天文暦術界に貢献した功績は大きいものがあります。

歳胤の墓は、故郷である大字虎秀にあります。墓石は、高さ51㎝、幅23㎝の小松石で、幅34.5㎝の台座上に建っています。墓石正面には「寛政元酉年 乾道陽生信士 三月甫六日」と、左側面には「昔来し道をしおりに行空の 何迷ふべき雲の上とて」の辞世が、右側面には「天文大先生俗名千葉陽生平歳胤 施主浅見幸助」と記されています。

なお、墓の近くを走る奥武蔵グリーンライン沿いには、歳胤が数学、暦法、天文について独学したといわれている「天文岩」と呼ばれる岩窟があります。
千葉としたね墓

本邦帝王切開術発祥の地 (市指定・史跡)

嘉永5年(1852)4月25日、秩父郡吾野村(現飯能市)坂元で秩父の医師伊古田純道(いこだじゅんどう)と地元南川の医師岡部均平(おかべきんぺい)によってわが国初の帝王切開術が行われました。お産は難産で胎児は死亡し、母体も危険な状態になったため、家族の了解を得て急遽、帝王切開術を行ったものです。手術は成功し、患者は88歳の長寿を全うしました。

伊古田純道は、当時翻訳されていた産術の蘭学書『撒羅満氏産論(さらまんしさんろん)』を読んでおり、それを実行したものと考えられます。伊古田純道は、後にこの手術のことを記録に遺しています。なお、伊古田純道と岡部均平は、どちらも都幾川村(現ときがわ町)番匠の医師小室元長・元貞父子から医術を学んでいます。

岡部均平の家は、祖父・父も医師であり、代々地元南川で年番名主を継いだ家柄で、均平も名主として功績を残しています。

現在、手術が行われた地には「帝王切開術発祥の地」の記念碑が建てられています。
本邦帝王切開術発祥の地 (市指定・史跡)

天覧山の勝 (県指定・名勝)

飯能の象徴的な存在であり、埼玉県指定の名勝第1号でもある天覧山(てんらんざん)は、市街地の西北端、奥武蔵山塊の東端に位置しています。海抜は195mで、地質は秩父古生層に属しています。全山、杉、松におおわれ、中腹以下はつつじ、笹が多く、頂上付近には岩石が露出しています。ここからは眼下に飯能の市街が、さらに遠くは関東平野、奥秩父連山などの眺望がすばらしく、晴れた日には東京の高層ビル群も見られます。なだらかな山で登山道もよく整備されていますし、さらに足をのばせば尾根づたいに多峯主山(とうのすやま)にも通じていますので初心者向け・ファミリー向けのハイキングコースとしても知られています。

この山は、麓にある能仁寺(のうにんじ)の所有です。元々は愛宕山(あたごやま)と呼ばれていましたが、その後、山頂付近に羅漢(らかん)像がまつられたことから、一時期、羅漢山と呼ぶようなったと言われています。明治16年(1883)に飯能を会場に行われた近衛兵大演習の際、視察のため明治天皇が登頂されて以来、「天覧山」と呼ばれるようになりました。

山容の美に加えて、山内には名刹能仁寺や郷土の武将、学者、文人などの墓、文学碑も数多くあることから、飯能を代表する名所の一つとして多くの人に親しまれています。
天覧山の勝 (県指定・名勝)

能仁寺庭園 (市指定・名勝)

能仁寺庭園(のうにんじていえん)は、名刹として知られる能仁寺の北庭です。天覧山の南斜面を巧みに利用してつくられた庭園様式は、「池泉鑑賞式蓬莱庭園(ちせんかんしょうしきほうらいていえん)」といい、背後の山畔を利用して枯滝を組み、下部を池泉とした上下二段式庭園といわれています。庭の面積は1,090㎡で、池泉の面積は134㎡です。

池泉の左手にある亀島に、対岸から石橋が渡されていますが、これは明らかに当初の手法を残すもので、長さ3m、中央幅1.13m、厚さ0.55mという力強い巨大な岩石は、桃山時代作庭であることの一つの証明といわれています。

滝口右手下に高さ1m、幅0.7mの洞穴がポッカリと口を開いており、一種の神秘性さえ漂わせています。

四季折々の美しさを味わえる名園です。
能仁寺庭園

中山家範館跡 (県指定・旧跡)

中山家は、武蔵七党の一つ丹党(たんとう)の出です。鎌倉時代の加治家季(かじいえすえ)の頃に大字中山の地に居住し、中山を氏とするようになったと言われています。後に中山家は後北条氏に従い、天正18年(1590)には、中山家範(なかやまいえのり)が後北条の城だった八王子城で戦死しています。

この館は、中世武士団の館跡として著名で、大字中山の智観寺の東北にありました。周囲には推定幅4~6m、深いところで2mぐらいの空濠(からぼり)をめぐらしていました。北に蓬莱山、遊亀山、勘解由山と続き、丹生堀と加治堀の水源にはさまれていました。また館内には大年様として父の家勝像を祀り、周囲には鎮守一二社や守護神が置かれ、中山家に仕える武士の居宅があったといいます。

現在は宅地化が進んだため空濠の一部を残すのみとなっています。
家範館跡

小岩井渡場遺跡 (県選定・重要遺跡)

小岩井渡場遺跡(こいわいわたっぱいせき)は、市街地より入間川右岸に沿って4kmほど遡ったところにあります。東西を谷にはさまれ、北方の眼下には入間川を望み、北東に舌状にのびる台地の上にあります。

昭和49年(1974)に浄水場建設に伴う記録保存のために発掘調査が行われました。

調査の結果、6地点の礫群(石器製作跡)、22軒の竪穴(たてあな)住居跡、12基の炉穴、85基の土坑が確認されました。礫群は、大半がほぼ尖頭器(せんとうき)を主体とする時期のものであり、ナイフ形石器、石刃(せきじん)、掻器(そうき)、抉入(えぐりいり)削器なども含まれています。

住居跡は、形の上で隅丸長方形、隅丸方形、楕円形、梯形、円形とバラエティに富むが、時期的には、茅山(かやま)期の1軒をのぞき、いずれも関山(せきやま)期のものです。

遺構は伴いませんでしたが、微隆起線文(びりゅうきせんもん)土器、爪形文(つめがたもん)土器、撚糸圧痕文土器などの縄文草創期に比定される土器片も出土して注目されました。 

現在、この時に発掘された竪穴住居跡2軒と土坑1基が砂で埋め戻されて、浄水場の北東隅に保存されています。
小岩井渡場遺跡 (県選定・重要遺跡)
指定文化財一覧・指定文化財解説種類別選択画面へ

この記事に関するお問い合わせ 教育委員会 生涯学習スポーツ部 生涯学習課
電話番号:042-973-3681 ファクス番号:042-971-2393

お問い合わせ