子育て・教育

有形文化財(書跡・古文書)

公開日:2019年04月08日

印刷する

指定文化財解説 有形文化財・書跡古文書

中山信吉木碑 (県指定)

中山信吉木碑(なかやまのぶよしもくひ)は、高さ151㎝、幅47㎝、欅の一枚板、亀趺(きふ)に碑身を載せ、上部に双龍、縁には雷文くずしの模様を刻む形状をしています。

この木碑は、現在、大字中山にある智観寺(ちかんじ)の収蔵庫にありますが、もとは三間四面の御影堂(みえどう)というお堂に、飯能出身の武人で水戸徳川家の附家老になる中山信吉の寿像(じゅぞう)と共に納められていました。

県指定になっているのは木碑そのものではなく、碑に刻まれた儒学者・林道春(羅山)の撰文です。

碑文は、全文582字、行数18行からなる漢文の陰刻で、内容は、信吉の生立ち、出世、水戸徳川家の祖頼房に節義の誠を尽くした事、嗣子信正が道春に撰文を依頼した事などがかかれています。「余識信吉于駿府有素矣」と記すように、平素学問を好んだ信吉と当時を代表する儒学者である道春の親交を物語る貴重な資料でもあります。
中山信吉木碑

長念寺寺領に関する文書 (市指定)

大字白子(しらこ)にある曹洞宗長念寺(ちょうねんじ)の所蔵する文書は、14通が一括指定されています。ここではその主なものを紹介します。  
(1)大石定久判物
この文書は、上杉氏の家臣で武蔵・相模十郡の領主大石定久が、天文12年(1543)に発したものです。
    長念寺々領之土貢無々沙汰可納之又
  於向後不可致難渋門前之者共も
  寺家へ能々可走廻也
    天文十弐年七月朔日   (花押)

 (2)北条氏照印判状

永禄9年(1566)のものと推定される文書です。天文15年(1546)の川越夜戦に敗れた大石定久は、敵将北条氏康の二男氏照を養子とし滝山城を譲りました。この文書は、定久に代わった氏照のものとみられます。

  寺領之事 如前々可被拘不可有横合旨被
  仰出者也仍如件       
         丙寅 正月十三日
    白子之内(如意成就) 長念寺

このほかに徳川家康寄進状、江戸幕府歴代将軍(6・7・15代を除く)の朱印状があります。
長念寺寺領文書

振武軍廻文 (市指定)

慶応4年(明治元年・1868)、維新政府軍(官軍)と旧幕府軍との戦争を総称して戊辰(ぼしん)戦争と言いますが、飯能もこの戦争にまきこまれました。いわゆる飯能戦争です。

討幕政策を不服とした強硬派の幕臣達は、彰義隊(しょうぎたい)を結成し上野に立てこもりましたが、意見の対立から一部が上野を離れ田無村に集まり新たに振武軍(しんぶぐん)を組織して官軍に備えました。その後、彰義隊の敗戦を知った振武軍が飯能に移ってきたため、飯能の地で戦となってしまいました。5月23日早暁から始まった戦ですが、わずか半日の戦闘で振武軍が潰滅して終わりました。

この廻文(まわしぶみ)は、振武軍が出したものです。白子村より正丸峠下までの、高麗川上流11ヵ村宛になっていて、「話のわかる者を1人ずつ飯能村見張番所まで出頭させるように」との趣旨が、幅16㎝の巻紙48㎝を使って書かれています。廻文は、戦闘の前日22日中に9ヵ村を廻っていますが、振武軍が半日で敗走したため全ての村を廻りきらなかったものとみられます。
振武軍廻文

細田文書 (市指定)

細田文書(ほそだもんじょ)は、室町時代末期、大字永田(ながた)に住んだ豪族・細田大膳(だいぜん)(監物の子孫と伝えられる)家にあり、5通が一括指定されています。そのうちの主なものとしては「北条氏照印判状(甲子制札)」があります。

この文書は、約400年前に滝山(現八王子市)の城主北条氏照から、永田に出された山林保護の制札と思われ次のように記されています。

      制札

右長田山之儀川北川南如前々之堅立林可申下
草ニ而も苅取者有之者野具を相押其身を者
搦取滝山へ引来可遂披露を旨被仰出者也仍状
如件
   甲子正月十一日  奉  長野                  
                                      長田之村
                                      藤七郎 
                                      弥十郎

この他にも、永田村の年貢についての紛争の記録と思われる「北条氏照印判状(子年分田金文書)」といった文書もあります。
「北条氏照印判状(甲子制札)」は永禄7年(1564)、「北条氏照印判状(子年分田金文書)」は永禄8年のものと推定されており、当時この辺りが北条氏の支配下にあったことを示す貴重な資料です。
細田文書

須田家日記 (市指定)

須田家日記(すだけにっき)は、大字小瀬戸にある須田家の祖、精道と勇太郎の父子二代にわたって、書き綴られたものです。

須田精道は、文政4年(1821)、小瀬戸村名主久馬太郎の長男として生まれました。16、7歳のころに吾野村坂石の岡田雋道(しゅんどう)に師事し、学問、医術を学び、のち京都に上り、医道を修行して帰郷しました。医業のかたわら寺子屋をひらき、明治15年(1882)に没しました。

精道の日記は、天保14年(1843)から明治15年に至る40年間39冊で、その生活を如実に記録しています。

勇太郎は、安政6年(1859)に精道の長男として生まれました。文筆に長じ、地域の世話などをよくし、家伝薬の製造もしていましたが、昭和6年72歳で没しました。父精道の没後の明治16年(1883)から同33年(1900)に至る17冊の日記を残しています。

精道、勇太郎2代にわたる56冊の日記は、当時の年中行事、農業、交際、冠婚葬祭、社会事情などの様子が読み取れる貴重な資料です。
須田家日記

旧名栗村森林組合文書 (市指定)

旧名栗村森林組合文書は、旧名栗村大字上名栗に事務所があった名栗村森林組合の、昭和17年(1942)の設立前後から昭和50年代初期までにわたる組織と運営にかかわる1986点に及ぶ史料群で、組合の設立と組合直営による木材生産の実態を明らかにする数多くの史料が含まれています。

戦時経済統制下における森林組合の直営事業を詳細に後世に伝える史料は全国的にも貴重であり、この点が名栗村森林組合文書の大きな特徴となっています。また戦後の史料には、先進的林業地における私有林経営の積極的な展開と沈滞がうかがえるものを多く含んでいます。

現在この文書は、名栗村との合併により飯能市郷土館が管理しています。

旧名栗村森林組合文書

この記事に関するお問い合わせ 教育委員会 生涯学習スポーツ部 生涯学習課
電話番号:042-973-3681 ファクス番号:042-971-2393

お問い合わせ