【平成29年1月号】平安時代における山間部開拓のその後

更新日:2023年01月31日

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平安時代における山間部開拓のその後 -飯能市大字唐竹・赤沢の場合-

茶内遺跡、横道下遺跡、ヨマキ遺跡の場所を示した地図の画像

 飯能市域の山間部にある平安時代の代表的な遺跡としては、大字唐竹(からたけ)の横道下(よこみちした)・ヨマキ遺跡、大字赤沢(あかざわ)の茶内(ちゃない)遺跡が挙げられます。これらの遺跡は9世紀中ごろから10世紀初めごろまでの間に高麗人(こまびと)に開拓された集落と推測されます。しかしながら10世紀初め以降の様子については、ヨマキ遺跡で時期が不明確な穴の跡が残されているのみで、詳しい様子がわかりません。
 その次に見られる考古学的資料としては、大字赤沢の秋葉(あきば)神社〔素戔嗚(すさのお)神社境内に所在〕そばから出土した13世紀終わりごろの渥美焼(あつみやき)広口壺(ひろくちつぼ)が挙げられます。広口壺は塚状の土盛りから出土しており、武士もしくは僧侶を埋葬した骨蔵器(こつぞうき)と推測されています。
 『新編武蔵風土記稿』(しんぺんむさしふどきこう 19世紀前半の地誌)をみると、16世紀の赤沢村には加治(かじ)の姓を名乗る武士の一族(注釈)がいたことがわかります。彼らが赤沢の地に来た正確な時期は不明ですが、加治惣領家(かじそうりょうけ)の祖である加治家季(いえすえ)が活躍した年代を上限に考えると、12世紀後半以降と考えられます。赤沢の金錫寺〔きんしゃくじ 臨済宗(りんざいしゅう)〕が14世紀の創建であり、臨済宗が武士からの信仰が篤かったことを考えると14世紀にはいた可能性があります。あるいは先述の骨蔵器も、加治氏に関係した人物のものかもしれません。 加治氏が来た時、高麗人たちの集落はどうなっていたのでしょうか・・・。(村上)

(注釈)武蔵七党のうち丹党に属する加治氏と同族と思われる。丹党は秩父から勢力を拡げ、高麗郡に来た一族は高麗氏を名乗り、さらに高麗郡加治郷を領した者は加治氏を名乗った。

参考文献

蘆田伊人編集校訂 『新編武蔵風土記稿』第9巻(雄山閣、1996)

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