【平成28年8月号】高麗人(こまひと)移住を物語る土器たち

更新日:2023年01月31日

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高麗人(こまひと)移住を物語る土器たち ―堂ノ根遺跡1号住居跡出土資料―

堂ノ根遺跡1号住居跡出土資料の甕、蓋、器の写真

 『続日本紀』(しょくにほんぎ)によると、霊亀2(716)年5月16日に、現在の日高・飯能市域を中心に高麗郡が置かれます。その際に、駿河(するが)・甲斐(かい)・相模(さがみ)・上総(かずさ)・下総(しもうさ)・常陸(ひたち)・下野(しもつけ)の七ヶ国に住んでいた、1,799人の高麗人〔高句麗(こうくり)系渡来人及びその子孫〕達が集められました。
 高麗人の移住を証明する資料が、飯能市内の遺跡発掘調査で発見されています。堂ノ根(どうのね)遺跡1号住居跡出土資料です(飯能市指定文化財 写真)。須恵器〔すえき 窯を使い高温で焼成(しょうせい)した灰色・硬質の土器〕の坏〔つき 飲食物を盛った椀形の器(うつわ)〕と蓋には、金雲母(きんうんも)や白色の長石(ちょうせき)が含まれ、常陸国(ひたちのくに 現在の茨城県)の窯で焼かれた須恵器と考えられています。また、土師器(はじき 野焼きした赤褐色・軟質の土器)の甕(かめ)は、その形と整形方法から「常総型(じょうそうがた)」と呼ばれる下総国(しもうさのくに ほぼ現在の千葉県北部)から常陸国南部に流通していたものとわかります。これらの土器の年代は7世紀末から8世紀前葉で、建郡の頃におおむね一致するため、常陸国南部あたりに住んでいた高麗人が、移住時に持ってきた可能性が考えられています。
 土器は出土状態から、1号住居跡の住人が使用したものと推測されます。1号住居跡は一辺約7メートルの竪穴で当時としてはかなり大きいことと、割れやすい土師器の甕を含め、まとまった数の土器を持参していることなどから、1号住居跡に住んだ高麗人は、比較的富裕な層であったと推定されています。(村上)

参考文献

飯能市遺跡調査会『堂ノ根遺跡第1次調査』(飯能市遺跡調査会 1993年)
飯能市教育委員会『掘り起こせ!地中からのメッセージ』(飯能市教育委員会 2010年)
富元久美子「渡来人による新郡開発 ―武蔵国高麗郡―」『古代の開発と地域の力』(高志書院 2014年)

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