【平成28年5月号】防災倉庫と「郷倉(ごうぐら)」

更新日:2023年01月31日

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防災倉庫と「郷倉(ごうぐら)」

美杉台小学校にある防災倉庫と西東京市指定文化財「稗倉」の写真

 現在、市内の指定避難所などには備蓄倉庫が備えられています。ご承知のようにその中には避難所を開設するための備品などとともに非常食などが蓄えられています。
 江戸時代にも似たような機能をもつ倉庫が「村」(現在のほぼ大字に相当)に造られていました。これを「郷蔵」といいました。凶作・飢饉などに備えて、米や麦などの穀物を貯えておくものです。
 例えば、赤沢村(現代の大字赤沢)を例にとると、この村には、天保10(1839)年と嘉永2(1849)年に建てられた2つ郷蔵があり、前者は小字茶内にあり「古蔵」、後者が小字久林にあって「新蔵」と呼ばれていたようです。大きさは、古蔵が間口2間半(約4.5メートル)・奥行1間半(2.7メートル)、新蔵が間口・奥行とも1間(1.8メートル)で、杉皮葺の板蔵でした。
 郷蔵には、麦や稗などの穀物を3146.9升(約5.675立法メートル)積み入れ、凶作の際に領主(一橋家)の指示により食糧に困っている者へ手当したり、不足している者へ貸し与え、新麦が出来た時には現物で返納することになっていたようです。また、毎年新しく穀物が収穫されると一部を積み替えることになっていました。  江戸時代は基本的に食糧は自給が前提でした。従って気候不順や災害によって農作物が不作になると、それは直ちに日々の食糧に事欠くことを意味しました。明治になって郷蔵はなくなりますが、これは流通機構が整備され、不作になっても別の場所から食糧を調達することが可能になったからです。
 私たちは、東日本大震災の経験により、その流通システムが機能しないと現代では生活できないことを思い知らされました。「防災倉庫」は、食糧自給社会で設けられた「郷蔵」が、物流システムに依拠した社会の下で復活したものと考えられないでしょうか(尾崎)。

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