【平成29年2月号】村と鉄砲~江戸時代の鉄砲事情~

更新日:2023年01月31日

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村と鉄砲~江戸時代の鉄砲事情~

四季打鉄砲御調書上の画像

 みなさんは鉄砲と聞いたとき、何を思い浮かべますか。戦国時代や幕末の戦いなどで見られるような、武器のイメージが強いのではないでしょうか。
 しかし大きな戦いがほとんど無かったはずの江戸時代、村々にはたくさんの鉄砲が存在していました。いったいなぜでしょうか。
 実は、江戸時代の農民たちは、作物を荒らす害獣対策として、鉄砲の使用が許可されていました。鉄砲の所持に関わる史料は飯能市域の村にもたくさん残っていますが、今回はその中から赤沢村(現原市場地区赤沢)の例を見てみましょう。
 写真の史料は「四季打鉄砲御調書上」といって、村が所持する鉄砲を役所に報告したものです。江戸時代、幕府は「鉄砲改」という決まりのもと村における鉄砲所持を厳しく統制しており、村では毎年その数と使用者を報告し、使用願いを出さねばなりませんでした。
 さて、この史料をみると、嘉永6(1853)年の赤沢村では8挺の鉄砲及び使用者が報告されています。数の横に「四季打」とあるのは「四季打鉄砲」のことで、これは2月から11月まで使用が許可されていました(実弾装填可)。また、その下の「御拝借」は、鉄砲が形式上は領主から借りているもの(預かりもの)とされていたことを示しています。
 では、農民たちは鉄砲を使ってどれくらいの獣を仕留めていたのでしょうか。「鉄砲改」では、毎年その数を報告するよう定めており、赤沢村では残念ながら嘉永6年の史料が現存しないのですが、嘉永5年は5疋(猪4、鹿1)、嘉永7年は7疋(猪5、鹿2)という記録が残っています。ほぼ1年の間にこれだけと考えると少ない気もしますが、彼らの主目的は獲物を仕留めることよりも害獣から農作物を守ることであり、時には空砲を撃って獣を追い払うこともありました。
江戸時代の農民にとって、鉄砲は武器というよりもむしろ、農業に必要な道具だったのです。
(宮島)

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