【平成29年3月号】御用宿三嶋屋と一橋家の村々

更新日:2023年01月31日

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御用宿三嶋屋と一橋家の村々

浅見譲二家文書No.63「清書写全」の画像

 文久2(1862)年12月15日、後に江戸幕府最後の将軍となる徳川(一橋)慶喜は江戸を出立し京都へ向かいます。本市域では原市場、唐竹、赤沢、下畑、上畑、下直竹、大河原の7ヶ村が一橋領となっており、慶喜にはこの村々から徴発された百姓たちが人足として付き従っていました。彼らは12月7日にふるさとを出発し、翌日江戸の元飯田町(現在の千代田区九段北など)にあった三嶋屋に入り、ここで15日まで逗留します。

三嶋屋とは一橋家の御用宿を務める家で、主の名前を権次といいました。御用宿は領主役所の近くにあって、江戸にやってきたその領地の百姓を泊めるほか、1.領主への届、願書、返答書などの作成、2.領主から領地村々への触、差紙(召喚状)の送達、3.御用に不慣れな村役人などへの援助などの役割を果たしていました。

権次も、一橋役所からの指示を受けて触を高麗郡の領地の村々へ飛脚を使って知らせたり(2.)、嘉永5(1852)年に赤沢村や中藤村などが幕府に冥加永上納を願い出た際に、差添人として関係する村々を支援しています(3.)。御用宿というのは、支配する武士(役所)と支配される百姓(村)との境目にあって、近世社会を支える存在であったのです。

高麗郡の一橋領村々の御用宿を三嶋屋が務めるようになった理由はわかりませんが、権次の先代太三郎は秩父郡南村(現在の飯能市坂石町分)の名主藤兵衛の子で、権次の妻は上名栗村の神職枝窪相模の娘で、藤兵衛の元で成長しました。こういった地縁も関係していたのかもしれません。(尾崎) 史料:浅見譲二家文書No.63「清書写 全」より

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