【平成29年4月号】なぞの多い精明学校

更新日:2023年01月31日

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なぞの多い精明学校

 精明学校は明治17(1984)年に、川崎学校(飯能市川崎普門寺)、双柳学校(飯能市双柳秀常寺)等を統合して称された、とされています。また、本当ならばこのとき新校舎になるはずでしたが、暴風雨により新校舎が倒壊したため複数の校舎のままになったとの記録が残っています。複数の校舎の内、1つが本校、残りが分校とされましたが、どの学校が本校であったのかは明確にはわかっていません。
 入学にあたっては「入学願」(下部翻刻参照)を提出しましたが、これを見ると、入学希望者である土屋長三郎は、加治学校にて初等五級まで卒業した旨が記されています。加治学校は飯能市中山の真福寺にあった学校で、小久保、下加治、宮沢、青木、中居、中山の子どもたちが通っていました。しかし、明治17年の改革で学校所在地である中山は飯能町連合に、それ以外の村は小久保、芦苅場、下川崎、川崎、平松と併せて小久保連合に設定されてしまいました。その結果、今まで加治小学校に通っていた小久保村連合の子どもたちは、学校を変えなければいけなくなってしまったのです。
 改革の年と願書の日付になぜ二年もの開きがあるのか、その理由ははっきりしません。精明学校についてはその設立年代について疑問視する声もありますので、もしかしたらそのあたりの事情と関係しているのかもしれません。(宮島)

普門寺の外観写真

校舎の1つとなった普門寺

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