【平成29年5月号】14歳で講義をしていた飯能の女傑、田中かく

更新日:2023年01月31日

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14歳で講義をしていた飯能の女傑、田中かく

 開国和親政策によって近代化を目指した明治新政府は、一方でキリスト教が人々の間に浸透していくことを恐れていました。その対応策として明治5(1872)年3月に国民の教化を担当する教部省が設置され、それを行う神官・僧侶を教導職に任じました。教導職の教育機関として東京に大教院が、各府県には教導職や小教院の管理にあたる中教院が設置され、在地の神社・寺院が小教院となって説教が行われたのです。
 また、大教院のもとには女性の教導職を養成する機関である女教院も置かれました。女教院設置に関わっていた国学者井上頼圀は、幕末期に飯能周辺地域に出張講義に出向いていました。その定宿の娘であった高麗郡久下分村(現在の飯能市仲町、稲荷町、南町など)の田中かくは、東京に出て井上の門下生となり、明治6年6月25日に公家の姉小路家に開校された女教院に参加します。当時姉小路家に同居していた跡見花蹊(跡見学園の創立者)も女教院設置に関係していて、花蹊の日記には、女教院開校日にかくが両親とともに来訪したこと、7月以降、かくが3と8の付く日に開催された集会に参加していたことが記されています。そこでのかくの説教は評判が良く、旧淀藩主稲葉家にも説教に行ったようです。かくはまだ14歳に過ぎませんでした。
 田中家文書にはかくが書いた「講録」が残されていますが、14歳といえば現代では中学2年生。その年でこれを講じていたとは驚きです(尾崎)。

田中かくの講義録「講録」(田中家No.121)の画像

田中かくの講義録「講録」(田中家No.121)

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