飯能のたからものー「飯能縄市」の痕跡ー

更新日:2023年03月31日

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かつて江戸時代に六斎市(月6回開かれる定期市)である「飯能縄市」が開かれていた大通りには、現在もその頃の名残ともいえる歴史的建造物が遺っています。

落ち着いた町並み空間を作り出しているこれらの建物は、まさに「飯能のたからもの」といえます。

「飯能縄市」が行われた大通り(明治44年12月)

「飯能縄市」が行われた大通り(明治44年12月)

新井家住宅(中清商店)

新井家住宅(中清商店)

新井家住宅(中清商店)

店の前に積まれる米俵・大正2年 新井 景三氏蔵

店の前に積まれる米俵・大正2年  新井 景三氏蔵

江戸中期以来米穀商を営んできた新井家は、飯能を代表する大店です。

明治13年の飯能の町の商家の商金高を書き上げた記録によれば、新井清平は穀物、桑、糸繭を商い、金高は町で最も多い15,180円となっています。

店蔵は現在の店舗の影に隠れて表からは見えませんが、飯能で現存する店蔵では最も大きな間口をもち、大店にふさわしいものといえます。

大野家住宅(銀河堂)

大野家住宅(銀河堂)

大野家住宅(銀河堂)

西側から確認できる建物配置

西側から確認できる建物配置

明治35年発行の『埼玉県営業便覧』には、この場所に織物買継商の山下佐市の名前があり、小川出身で大野家初代の佐七が明治41年に亡くなっていることから、大野家がこの場所に織物買継商の店を出したのは、明治30年代後半と考えられます。

ただし、店蔵はその時には既に建っていたそうです。

大野佐十郎商店は昭和4年には生絹、銘仙、村山大島を扱っていましたが(「飯能織物同業組合案内・飯能商工会案内」)、昭和12年には「生絹専門」(『飯能絹織物』)となっています。

店蔵の前に「庭」空間が遺り、敷地の建物配置も往時のままでとても貴重です。

店蔵絹甚(飯能市指定文化財)

店蔵絹甚

店蔵絹甚

絹甚の引札

絹甚の引札

この店蔵は明治37(1905)年に篠原甚蔵・長三父子によって建てられたものですが、篠原家は既に天保13(1842)年にはこの場所で商いをしていたようです。

篠原武治家文書によると絹甚は、明治10年代に呉服・太物小売をしていましたが、明治18年頃から糸繭仲買も始め、経営を多角化していった様子がうかがえます。

そして明治43年にこの場所での商業活動を終えました。

小槻家住宅(入口電業)

小槻家住宅(入口電業)

小槻家住宅(入口電業)

大通り(東へ向けて)・入口呉服店の暖簾が見える

大通り(東へ向けて)・入口呉服店の暖簾が見える

入口の屋号をもつ小槻家は、文政5(1822)年には炭問屋を営んでいましたが、その後幕末から明治の頃に呉服屋となり、現在は電気屋さんとして商いを続けています。

屋号の入口が飯能の市町を指すとすれば町は中町から始まったことになり、この「入口」がどこの入口なのか、その答えは飯能の町の成り立ちに関係すると思われます。

横川家(旧畑屋)

横川家住宅(旧畑屋)

横川家住宅(旧畑屋)

南側の3階建て木造建築

南側の3階建て木造建築

畑屋は、明治33、34年頃には既に大通りで料理屋として営業していたことがわかっています。

大通りからみて裏手にある木造3階建ての建物は大正期の建造といわれ、座敷では地場産業であった絹織物や材木商の旦那衆が商談や接待に利用し、近くには置屋もあって、飯能の町が最も賑やかだった頃の象徴ということができます。

明治期に下畑から養子に入った横川竹造は、ここを拠点にその後天覧山麓の東雲亭、飯能河原の水泳場の前にあった川の東雲亭の経営へと手を広げていきました。

旧飯能織物協同組合事務所棟

旧飯能織物協同組合事務所棟

旧飯能織物協同組合事務所棟

この建物は中央通りにあります。

飯能織物協同組合自体は昭和24(1949)年12月に改組、設立されたものですが、その起源は明治36(1903)年の武蔵織物同業組合にまで遡ります。

その事務所として大正11(1922)年に建築され、江戸時代後期以来、飯能の町の発展を支えてきた象徴的な建物として町の人々に親しまれてきました。

「織協」と呼ばれたこの組合は平成30年に解散してしまいましたが、前庭空間を残す大野家住宅とともに、飯能の町の歴史を物語る貴重な歴史遺産です。

神田・吉川家住宅(ナラヤ洋品店・吉川理髪店)

神田・吉川家住宅(ナラヤ洋品店・吉川理髪店)

神田・吉川家住宅(ナラヤ洋品店・吉川理髪店)

この建物は、銀座通り中ほどにあり、洋風の外観で人目を引きますが、実は切妻造りの鉄板葺き屋根の木造建築であることが、建物向かって左手の路地の方から見るとわかります。

このような道路側外観だけ平屋根で石積みの洋風建築に見せる町屋を「看板建築」といいます。

これは、大正から昭和初期にかけて、旧来の伝統様式の町屋とは異なり、ハイカラな店舗建築にあこがれた商人たちが、本体は伝統的様式であるのに表側に看板を建て洋風のお面をかぶせたように改造したものです。

(飯能市立博物館 学芸職員 尾崎 泰弘)

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