博物館周辺の歴史巡り「戦国時代の遺産を訪ねるコース」

更新日:2023年01月31日

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戦国時代の遺産を訪ねるコース

1.大河原城

 現在、「龍崖山を愛する80人衆」のみなさんによって頂上の主郭までの道が整備されています。この城の主郭は龍崖山の頂上にあり、その広さは長さ24メートル、幅15メートルほどです。主郭の南には、南(龍崖山公園方向)に伸びる尾根を切る形で、深さ6メートル、下幅2メートルの大規模な堀切が見られ、これが一番の見どころです。
 軍荼利神社からの登り口の途中には、15メートル×20メートルほどの広さの平場が造成されており、これらのことからこの城は北が正面であることがわかります。実際に主郭からは北から東にかけての眺望が開け、眼下の名栗と飯能を結ぶ街道をのぞむことができます。大河原城についての記録はなく確かなことはわかりませんが、その作り方から15世紀中頃以降のものと思われます。

大河原城の主郭の写真

大河原城の主郭

大河原城の主郭南側の深い堀切の写真

主郭南側の深い堀切

2.飯能市立博物館

 博物館の「里」ゾーンでは、戦国時代に関係する2つのコーナーをご覧ください。

飯能市立博物館の外観写真

飯能市立博物館

戦国時代の展示がされている歴史展示室「里」ゾーンの写真

歴史展示室「里」ゾーンの戦国時代の展示

戦国時代の飯能

 戦国時代、飯能市域の多くが、多摩川上流の「杣保」を本領とする三田氏の領国で、久須美を本拠としていた宮寺氏もその家臣でした。ちなみに中山氏は三田氏の被官となっていた形跡は見られず、ここでは、中山氏以外の戦国期の様子をご紹介しています。

戦国時代を生き抜いた中山氏

 天文15(1546)年の川越夜戦後に北条氏に仕えた中山氏は、その後家範が氏照の重臣となったことで、 記録にも表れてくるようになります。ここでは戦国時代の中山氏の活躍ぶりを紹介しています。

3.能仁寺・中山勘解由三代の墓(飯能市指定文化財)

中山勘解由三代の墓の写真

戦国時代を生き抜いた中山氏三代、家勝・家範・照守の墓が能仁寺にあり、能仁寺は、中山家勝が萬年寺(岩筑)の僧斧屋文達を招いたことに始まるとされています。
中山家勝は、関東管領上杉氏の一門である扇谷上杉朝定の家臣でしたが、天文15(1546)年の川越夜戦で北条氏康と戦った朝定が敗死すると、その後北条氏に仕えたといわれています。
中山家範は、中山家勝の子で滝山城主の北条氏照に仕えました。家範は氏照の重臣として各地を転戦し、天正18(1590)年豊臣秀吉の小田原攻めに際し、氏照から八王子城の守備を命ぜられましたが、前田利家・上杉景勝軍に攻められて奮戦し、自刃しました。
中山照守は家範の長男で、家範の敗死後徳川家康に仕え、その後二代将軍となる秀忠に付けられました。
関ヶ原へ向かう途中の信州上田での真田氏との戦いや大坂夏の陣でも戦功をあげ、旗本として3500石を領しました。照守は馬術に優れ、八条流馬術の名手として知られました。

4.智観寺・中山信吉墓(埼玉県指定文化財)

中山信吉の墓の写真

 中山信吉は、北条氏照の重臣として八王子城で自刃した中山家範の子として、天正4(1576)年に生まれました。北条氏が滅ぶと徳川家康に仕え、慶長8(1603)年には伏見城中の賊を捕らえるなどして家康の信頼を得て、慶長12年に家康の11男頼房の養育し補佐する役(傅役)となりました。
 信吉はその後、頼房が藩主となった水戸藩の付家老として二万石余を与えられ、二代藩主に光圀(水戸黄門として有名)を推挙したことで知られています。
 信吉は寛永19(1642)年に65歳で亡くなりましたが、最初は中山家の菩提寺となっていた能仁寺に葬られ、その後智観寺に改葬されました。
 信吉の墓は江戸時代の大名墓では珍しく高さ4メートルの塚を伴っている点に特徴があり、明治33(1900)年頃まではその前に御影堂と呼ばれる御霊屋(霊をまつる場所)がありました。その中には、現在智観寺の収蔵庫に収められている中山信吉木碑や鶴形燭台が置かれていました。

5.中山家範館跡(埼玉県指定文化財)

中山家範館跡の写真

 「中山村御屋鋪図」(年欠、江戸中期頃か)によれば、外郭部分の西は小川の流れを境に智観寺境内に接し、中核部は東西60メートル、南北約80メートルの方形をしており、北側には東西65メートル、幅は東が6メートル、西は5メートル最深部は2メートルの堀が土塁を伴って残っていました。
 その後、昭和33年頃の調査で、館の北側に深さ3.5メートルの空堀と土塁の遺構が残り、館の西北端と丹生明神社の境にも土塁があったことが確認され、遺構の上からは1辺50~70メートル程度の南北にやや長い長方形の単郭の方形式居館と考えられています。
 館の堀は、谷からの冷たい水を暖めて、それを経営する水田に引くという機能もあり、こういったタイプの館は、15世紀になってから登場するといわれています。旧跡の名称が「中山家範館跡」となっているのは、そのためです。

大河原城はこんなところです

大河原城の縄張図の画像

大河原城の縄張図
出典:梅沢太久夫『中世北武蔵の城』

大河原城の登り口の写真

大河原城の登り口
登り口は、八耳堂の手前(東側)にあり、入口には看板が出ています。

龍崖山頂上へ導く案内板の写真

主郭(龍崖山頂上へ導く案内板)
途中には、「龍崖山を愛する80人衆」のみなさんによる案内板が至る所にあり、迷うことはありません。

主郭(龍崖山頂上)から見通す写真

主郭(龍崖山頂上)からの眺め
頂上からは東の入間市方面から飯能の市街地を経て名栗に至る道をよく見通すことができます。

大河原城の解説板の写真

大河原城の解説板
頂上には、大河原城の解説板も設置されています。

龍崖山の頂上(主郭)の写真

龍崖山の頂上(主郭)
登り口のちょうど反対側に南側の堀切2へと下りられる道があります。急な坂道なので気をつけて!

主郭南側の堀切2の写真

主郭南側の堀切2
尾根を断ち切って南側の尾根筋からの侵入を防いでいます。

堀切2の解説板の写真

堀切2の解説板
堀切の脇にも丁寧な解説板があります。

この記事に関するお問い合わせ先

飯能市立博物館
電話番号:042-972-1414 ファクス番号:042-972-1431
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