飯能の歴史

更新日:2023年01月31日

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1 「飯能」とは

「飯能」という地名

 飯能市は、地理的にはほぼ、成木川流域を含む入間川上流・中流域と高麗川上流域及び台地部分にあたる南小畔川の流域からなります。
 「飯能」という地名は、元々は、現在の市内大字飯能、本町、山手町に該当するごく狭い範囲を指していました。江戸時代の「飯能村」です。今の大通りに町ができる前までは、飯能村も里に位置する農村の1つにすぎませんでした。約300年前、その飯能村の東南隅に町ができ、明治になって自治体制度が誕生して江戸時代の村を統合した時に「飯能町」となり、さらに合併を繰り返しながら、その都度「飯能」がその範囲を代表する名称として選ばれてきました。このことは、それぞれに独自の地形や風土をもち、人が住んでいる地域が一つになる時の「結び目」として「飯能」が評価されてきた証にほかなりません。
 こうしたことを意識しつつ飯能の歴史をふりかえります。なお「飯能町」や「飯能市」が示す範囲は時期によって異なりますので、ここでは現在の飯能市域を「飯能」と呼ぶことにしましょう。

2 飯能市域に人が住み始めた頃

飯能に人が住み始めた頃

 飯能に人が初めて足を踏み入れたのは、今から約2万年前の後期旧石器時代で、屋渕遺跡(大字下加治)でナイフ形石器(槍の先端部分)が見つかっています。この時代の飯能は現在の北海道南部と似たような寒冷な気候で、人々はシカ・イノシシなどの中・小型獣を追って、遊動しながら狩猟と採集を中心とした生活を送っていました。

花開く縄文文化

縄文時代中期のムラの跡の写真

 1万5千年前、最終氷期が終わり気候が温暖化したことにより、陸地では落葉広葉樹や照葉樹が広がり、シカやイノシシなどが増えていきました。この環境変化に適応し自然の恵みをたくみに利用したのが縄文時代の人びとです。最終氷期の終わりごろに土器を発明した人々は、それを使って煮炊きをする技術を獲得したことで、木の実などをアク抜きして食べることができるようになりました。
 安定的に食糧を得ることができるようになった人びとは、やがて定住してムラを作ります。飯能には、縄文時代初めの草創期から終わりの晩期に至るまでの各時期の遺跡が多く残されています。 
写真:縄文時代中期のムラの跡(落合・上ノ台遺跡)

人々はどこへ?弥生~古墳時代

 稲作が盛んになる弥生時代、人々は稲作を効率よく行うことができた低湿地の近くに住むようになります。稲作に適した場所の少ない飯能では、人がまとまって住んでいた形跡が認められなくなります。またそれに続く古墳時代でも小規模なムラがところどころに見られる程度です。

高麗郡建郡

高山不動の常楽院不動堂の外観写真

 8世紀になり都が奈良に置かれて間もなくの頃、飯能を大きく変える命令が出されました。すなわち、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の7ヶ国にいる高麗人1,799人を武蔵国に移住させ、高麗郡を置くことになったのです(『続日本紀』の霊亀2(716)年5月16日条)。また9世紀になると入間川、高麗川上流域にもムラが営まれるようになります。山に住んだ人たちは、焼畑を行い炭を生産するなど山の資源を利用して生活していたと推測され、既にこの頃から、人びとは森林と関わりながら生きていたのです。
 いっぽう山の中には、修行僧や修験者たちが入り修行を続けることで里の人びとからも信仰され、霊地となっていくところも現れました。 10世紀に遡る木造軍荼利明王立像(国指定重要文化財)のある高山不動などです。      
写真:高山不動の常楽院不動堂(埼玉県指定文化財)

3 武士の時代

鎌倉幕府の成立と党的武士団

智観寺板石塔婆の写真

 12世紀の終わり頃、源頼朝とそれを支えた東国の武士団たちによって武家政権である鎌倉幕府が成立しました。武蔵国では、中小の武士団を支配下に収めた下総国の千葉氏、上総国の上総氏のような首長的な武士団が見られず、「武蔵七党」などと呼ばれる中小規模の同族的武士団(党的武士団)が半ば独立を保ちながら、多数存在していることが特徴でした。彼らは、台地に切れ込んだ谷を水田として開発し、その近くに館を構え、周囲には一族や従者を住まわせ、所領支配の拠点としました。そして自らが開発をした地を本拠地とし、その地名を自らの名字として名乗りました。
 「武蔵七党」の1つ丹党・加治氏の足跡は、本市と入間市にまたがってたどることができ、智観寺(中山)には、二俣川で畠山重忠と戦い討ち死にした加治家季の供養のために建てられた板石塔婆(板碑)が遺されています。また中山を本拠とした加治氏の子孫は、中山氏となりました。
 智観寺板石塔婆(埼玉県指定文化財・複製)

戦国時代の飯能

中山家範館跡の写真

 14世紀の前半に鎌倉幕府が滅び、その後の建武新政を経て、足利尊氏による室町幕府が成立すると、関東は鎌倉公方とそれを補佐する関東管領による鎌倉府の管轄となりました。その後、この両者の対立等によって争乱の時代がはじまります。このとき飯能周辺では、多摩川上流域の「杣保(そまのほ)」と呼ばれた地域を本領とする三田氏が領国を拡大し、飯能もその中に含まれていきます。また中山を本拠としていた中山家勝は、天文15(1546)年に川越で起きた、古河公方足利氏、山内・扇谷上杉氏からなる連合軍と小田原を本拠とする北条氏康との合戦の後、北条氏の家臣となります。そしてその子家範は、天正18(1590)年豊臣秀吉が北条氏を攻めた際、八王子城の守備にあたり、自害しています。 
写真:中山家範館跡(埼玉県指定文化財・旧跡)

4 今につながる江戸時代

町の始まり

 関東を支配していた北条氏が滅び、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、江戸に幕府を開きました。江戸に近い武蔵国西部の山間地域は多くが幕府領とされ、山間部と平野部の接点にその支配のための陣屋が設けられました。畑が多く田の少ないこれらの地域では、米でなく貨幣で年貢を納めるために、地元の産物を換金する機能をもつ市が立てられました。中山に開かれていた市もその1つと考えられます。

集まる産物

 村人たちが農業の間に行う諸稼ぎが生み出すものの一部はやがて商品となり、流通の発達とともに地域に様ざまな特産物が生まれるようになりました。入間川の谷口集落である飯能の町は、17世紀後半に縄や筵を扱う市が立ち、その後山方の産物である炭や石灰が集まり、さらには生糸や織物の産地市場となって発展していきました。これらは、飯能の町にいったん集荷され、そこの商人を通して各地の消費地へと送られていきました。

林業の発展

明治末期の名栗川と植林された山の写真

 いっぽう、少なくとも正徳・享保期(1711~1736年)になると、入間川上流域には材木を伐り出し筏流しをする材木商人が多数存在し、消費市場である江戸と直に取引をしていました。またこの地域では、上名栗村の世襲名主町田家のように、村人を奉公人や人足として雇い、地域経済の維持、継続に重要な役割を果たす者も現れるようになりました。町田家は江戸後期になると江戸に材木問屋を開設し、自ら消費地での取引も始めるようになります。これらの店は、入間川上流域の材木商人たちにとって代理店的な機能ももつようになり、その後の西川林業の発展に大きく寄与するようになりました。    
(写真:名栗川と植林された山(明治末期))

江戸から明治へ

飯能戦争の砲弾が納められている箱の写真

 慶応2(1866)年6月13日、上名栗村を発端として武蔵国17郡、上野国2郡にまで波及する大規模な打ちこわしが起こります。「ぶっこうし(武州世直し一揆)」です。民衆が「世直し」・「世均し(よならし)」を唱えて立ち上がり、米の安売りや施金・施米、質地証文・借金証文の廃棄などを求めて闘いました。この打ちこわしは、鎮圧される19日までの7日間で、瞬く間に関東各地に広がって江戸幕府の威信をゆるがし、その崩壊を早めた要因の1つとなりました。
 それから2年後の慶応4(1868)年、飯能の町の人びとは図らずも江戸幕府の終わりを目の当たりにすることになります。江戸幕府の旧臣からなる彰義隊から分かれた振武軍は、渋沢成一郎を頭取とし、上野戦争の敗残兵らとともに5月18日に飯能に現れます。そして同月23日未明に笹井(現在の狭山市)で明治新政府方と交戦し、同日早朝には飯能の町が戦場となりました。これを飯能戦争といいます。この戦闘で能仁寺・智観寺・観音寺・広渡寺の4ヶ寺と、飯能村・久下分村・真能寺村・中山村の4ヶ村で民家200軒が焼失しました。写真:飯能戦争の砲弾が納められている箱

5 近代以降のあゆみ

飯能町の復興

 飯能戦争によって飯能の町では商家の多くが焼失しましたが、時とともに町はその被害から徐々に復興していきます。明治16(1883)年4月には陸軍近衛諸隊の軍事演習が飯能町周辺で行われ、飯能の町に明治天皇が行幸された際には、2,000人近い将兵の止宿を可能にするほどまでになっていました。

入間郡を代表する町へ

明治11年入間郡の町の地価の説明画像

 飯能の町は、明治の頃には入間・高麗郡内を代表する大きな町の1つでした。例えば明治11(1878)年における1反あたりの地価でみてみると、飯能町は、城下町であった川越、所沢につづく3番目の高さで、人口規模でも、少なくとも明治中期から戦時中までは所沢町と肩を並べるほどでした。
 この発展を支えたのが絹織物でした。もともと入間郡は埼玉県の中でも織物の生産が盛んな地域で、明治初期の飯能では絹織物より木綿縞の生産量の方が多いくらいでした。木綿縞は綿織物と絹綿交織物が取引される市場であった所沢に集められて「所沢織物」と呼ばれました。一方、絹織物は、江戸後期には飯能の市で取引が行われるよう
になり、やがて飯能の代表的な産物となっていきました。
画像:明治11(1878)年入間・高麗郡の町の地価

鉄道の開通

飯能駅前に集まる材木と当時の市民らの様子の写真

 この織物業の発展が機屋や買継商の資本を形成し、明治20年代後半から起こってくる鉄道敷設計画へとつながっていきます。蒸気機関車による本格的な鉄道である武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)が開通したのは大正4(1915)年4月のことです。これにより、水量の少ない入間川、高麗川にあって増水時にしか筏を流すことができず、輸送に不便を来していた材木の流通形態は劇的に変わりま
した。飯能の駅前には多くの材木商が店を出し、材木が集められて、飯能町は材木の産地市場としての地位をも確立したのです。
写真:飯能駅前に集まる材木

観光スポット「天覧山」の誕生

天覧山の写真

 「天覧山」といえば、飯能を代表する観光スポットとして、埼玉県内はもとより西武池袋線沿線でも有名です。かつて遠足で来たことがある経験をもつ方も多いのではないでしょうか。そのきっかけも鉄道の開通でした。
 鉄道敷設が決まって間もない明治45(1912)年、東京帝国大学教授で林学博士の本多静六が「飯能遊覧地設計」について講演を行っています。その中で本多は、観音寺、諏訪神社、能仁寺、グラウンド(現在の中央公園)、十六羅漢、天覧山を廻遊するコースと、天覧山から見返り坂を経て多峯主山に登り、御嶽八幡から常磐山を経て降りてくるコースの2つの区域を、それぞれ遊覧地にしていくための具体的な計画を提案しています。この天覧山を中心に観光地化するという構想は具体化され、それを案内するためのリーフレットも作られるようになりました。大正11(1922)年に天覧山が埼玉県における名勝の第1号に指定されたことは、こうした動きと関係していると考えられます。
(写真:天覧山(埼玉県指定名勝))

観光に活かされた歴史

 飯能における観光の中心として、本多が天覧山に注目したのには飯能戦争も関係していると思われます。天覧山は当時「愛宕山」もしくは「羅漢山」と呼ばれ能仁寺の境内地でした。能仁寺には振武軍の本営として、頭取の渋沢成一郎やその従兄弟で渋沢栄一の見立て養子となっていた渋沢平九郎らが入っていました。遠くから見ることができる天覧山は、振武軍追討のためにやってくる新政府方には格好の目印であったと考えられます。そのため旧幕府方の主力が駐屯していた能仁寺は飯能戦争における主戦場となり、それと一体化している天覧山が歴史の舞台になったことで、周囲に広く知られることとなったのではないでしょうか。ちなみに本多静六の養父敏三郎は、渋沢成一郎と同じく一橋家の家臣で彰義隊に参加していました。

歴史は現代、未来へ

飯能の町の玄関口・飯能駅北口の写真

 織物、材木といった地場産業は戦後衰退していきますが、かつて飯能を支えていたこれら地場産業がもたらした、鉄道を初めとする社会資本は、人口減少社会に入った現代において、特色あるまちづくりを可能にする資源として存在しています。自然豊かな住環境、広大な森林がもたらす様々な恵み、そして谷の出口に広がる里山から奥武蔵の山々に散在する歴史文化遺産、さらには2019年3月にグランドオープンした北欧とムーミンの世界が体感できる「メッツァ」など、飯能にはこれからの発展を可能にする要素がたくさんあります。21世紀の飯能は私たちが歩んできた歴史とともにあるのです。
写真:飯能の町の玄関口・飯能駅北口

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飯能市立博物館
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