「飯能戦争」とは?
飯能戦争
渋沢栄一は慶応3 (1867) 年にパリへと旅立ちますが、その間に勃発したのが戊辰戦争です。
その地域戦の1 つである飯能戦争では、渋沢成一郎や尾高惇忠、そして渋沢平九郎といった栄一の縁者が中心となって結成した振武軍などが、新政府方と戦いました。飯能は、埼玉県内唯一の戊辰戦争の戦場となったのです。
戦いの経緯
振武軍ら旧幕府軍が田無から箱根ヶ崎を経て飯能の町へやってきたのは、慶応4年5月18日のことでした。彼らは、能仁寺など飯能市内の6つの寺に駐屯しました。
一方、新政府方は5月21日に江戸を出立して田無に入ります。そこで振武軍らが飯能にいるという情報を得ると、翌日には扇町屋(現在の入間市)へ進軍しました。そして5月23日未明、笹井(現在の狭山市)で双方が遭遇したことにより戦いの火蓋が切られます。ここで旧幕府軍を撃退した新政府方は、夜明けを待って進撃を開始しました。
戦いはわずか半日で終わり、新政府方が勝利します。敗れた幕府軍の兵士たちは散り散りになって逃れ、その中には渋沢栄一の縁者たちの姿もありました。そのうち渋沢成一郎と尾高惇忠は伊香保へ逃れることができましたが、二人とは別の道を行った渋沢平九郎は逃げ切ることができず、自刃という最期を迎えました。
渋沢栄一が帰国するのはこの約半年後のことです。このとき時代はすでに明治となっており、栄一の帰国も明治新政府の命によるものでした。
写真は、大字飯能にある能仁寺の境内に建てられた振武軍の記念碑です。
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更新日:2023年01月31日