渋沢栄一の縁者たち1渋沢成一郎(喜作)

更新日:2023年01月31日

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振武軍頭取として飯能へ

成一郎が篤太夫(栄一)とともに訪れた赤沢村の名主家土蔵の写真

 渋沢成一郎は「喜作」ともいい、渋沢栄一よりも2歳年上になります。元治元(1864)年2月にともに一橋(徳川)家に仕官し、その年の6月には赤沢村(現在の飯能市大字赤沢)など高麗郡などの一橋領を2人で回りました。
 戊辰戦争が始まった時、栄一は既に将軍徳川慶喜の弟昭武の随行としてフランスへ行っていましたが、成一郎は鳥羽・伏見の戦いに軍目付として参加、その後江戸に戻って彰義隊の頭取に就任します。しかし副頭取の天野八郎らと対立し、慶応4(1868)年閏4月に彰義隊を離れ田無村で振武軍を結成し、その頭取となります。
 写真は、成一郎が篤太夫(栄一)とともに訪れた赤沢村の名主家土蔵です。

「一身分体」の間柄

 成一郎は、飯能戦争で敗れた後伊香保に逃れ、密かに江戸に戻って江戸湾の榎本武揚の艦隊に合流します。そして新選組副長の土方歳三らとともに箱館で戦いました。
 成一郎は明治5 (1872) 年1 月に出獄すると、同年3 月に栄一のすすめにより大蔵省勧農寮に出仕します。そして蚕業調査のためイタリア、スイスなどへ留学し、帰国後に渋沢商店を草創し、東京深川に廻米問屋を、横浜に生糸売込問屋を営みます。
 栄一は、喜作のことを「一身分体の間柄」と言っていますが、自分と異なり一足飛びに志を達しようとする投機的気分があったと評しています。

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