渋沢栄一の縁者たち2尾高惇忠・平九郎兄弟

更新日:2023年01月31日

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栄一たちの兄貴分、尾高惇忠

 尾高惇忠は渋沢栄一より10 歳年上の天保元(1830) 年の生まれで、渋沢喜作や栄一に漢学を教えた教養人でした。尊王攘夷運動に共感し、文久3 (1863) 年には栄一や喜作らとともに高崎城乗っ取り、横浜異人館焼き討ちなどを計画したものの断念します。その後成一郎とともに彰義隊を経て振武軍を結成します。
 振武軍では「会計頭取」・「軍目付」( 「小川村御用留」) など幹部として成一郎を支え、飯能戦争で敗れた後は地元の下手計村に戻りました。なお、惇忠は維新後に民部省に入り富岡製糸場の初代場長に就いています。

幕末のイケメン!渋沢平九郎

 渋沢平九郎は尾高惇忠の弟で、栄一や成一郎の従兄弟にあたります。慶応3(1867) 年正月に栄一がフランスに渡る際にその見立て養子となりました。その後成一郎や兄惇忠と行動を共にし、彰義隊を経て振武軍に加わります。飯能戦争で敗走する際、顔振峠を超えて黒山村(現在の越生町) に出たところで、明治新政府方の広島藩兵に取り囲まれ自刃します。
 栄一は明治元(1868)年11 月に帰国すると、明治7年には平九郎の遺骸を谷中墓地に改葬します。その後も平九郎の生涯を記した記録を作成し、平九郎の戦死を題材とする演劇を帝国劇場で上演させています。これらが飯能戦争の存在を世に広め、悲劇のヒーロー渋沢平九郎を生むことにつながったといえましょう。

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