飯能市立博物館収蔵文書目録のWEB公開について
飯能市立博物館収蔵文書の利用方法
飯能市立博物館では50,000点を超える古文書を収蔵しており、その一部について、これまで4冊の収蔵資料目録を刊行しています。
これらを含め当館の収蔵文書の閲覧等を希望される方は、まず当館までご連絡いただき、閲覧を希望する日と閲覧する部屋(学習研修室)の予約をお願いします。
合わせて閲覧当日までに資料利用許可申請書の提出をお願いします。
ご連絡は下記お問合せフォーム等よりお願いします。
飯能市立博物館収蔵文書目録のWEB公開
飯能市立博物館で刊行している「収蔵文書目録」の内、一部の史料群について目録のWEB公開を行っています。
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【更新履歴】
令和6(2024)年11月20日 双木利夫家文書目録をWEBで公開開始。
双木利夫家文書目録(WEB公開)
【飯能市立博物館】双木利夫家文書目録 (Excelファイル: 329.7KB)
【飯能市立博物館】双木利夫家文書目録 (PDFファイル: 8.6MB)
【飯能市立博物館】双木利夫家文書寄留一覧表 (PDFファイル: 3.0MB)
解題
双木利夫家について
双木家は、近世には武蔵国高麗郡真能寺村(現在の飯能市八幡町)に所在する、飯能の町の名望家の1つである。
当該史料群で確認できる当主は、利八、佐左衛門、利八郎、八郎であり、少なくとも利八は、天明7(1787)年12月には名主になっている。
その後、佐左衛門、利八郎と続くがいずれも真能寺村の名主を務めた。
その後、上名栗村で組頭を務めた柏木家から八郎が養子に入り、八郎は利八郎没後の明治11年4月には真能寺村戸長に就任、その後明治・大正期にそれぞれ飯能町長に就任している。
ちなみにその子利一も大正から昭和にかけて飯能町長を務めた。農業を基本としながらも、炭商(No.223)、陸運店(No.226)を営んでいたようである。
史料の来歴・概要
17 世紀後半から定期市(飯能縄市)が開かれていた飯能の町は、飯能・久下分・真能寺村の3ヶ村で構成され、「抱合村」として一体で寄場組合親村を務めてきた。
当該史料群のうち最も古いものは慶安2年5月の心応寺の朱印地に関わるものであるが、作成年代が判明するものの97%が、市制町村制が施行される明治22年以前のものである。
このうち文書の作成主体(組織体)で見れば、
1 近世真能寺村の名主家文書、
2 明治5年以降の真能寺村戸長役場文書、
3 明治12年3月に成立した飯能・久下分・真能寺3ヶ村戸長役場組合文書、
4 明治15年6月に3ヶ村が合併してできた飯能町の役場文書、
5 明治17 年9月に周辺の中山・大河原・永田・久須美・小瀬戸・小岩井の6ヶ村とともに設置した連合戸長役場文書
から成る。
当該史料群には、真能寺村が中山村、笠縫村に所持していた「預り地」に関わるもののほか、領主である上総国久留里藩黒田家の菩提寺が飯能村の能仁寺であったことから、藩主やその一族の葬送に関わる史料が見られる。また、市立てが行われた町の中心部分にあたる旧飯能村・久下分村分の商家の関連史料もあり、飯能縄市の構成や景観の解明が期待される。
そのほか明治初期から同20年頃までの寄留届などがまとまって残っており、この時期の飯能の町における人の動きや繁栄ぶりをうかがうことができる。
更新日:2024年11月19日