飯能の底抜け屋台行事
底抜け屋台行事
底抜け屋台は、江戸時代中期(宝暦年間・1700年代後半)に江戸天下祭り(山王権現・神田明神各祭礼)で出現した祭礼屋台の一種です。当時の幕府が華美で大型の屋台を禁止したことから、大型踊り屋台の機能を舞台のみの簡素な踊り小屋台と囃子を演奏するだけの素朴で小型の底抜け屋台の2台に機能を分散し、禁令に抵触しない形で曳き廻したのが始まりとされています。
当市に伝わる底抜け屋台の祭礼行事は、明治の中頃より昭和の初めにかけて、入間市西部の野田・高倉・新久地域から当市内、双柳・原町・三丁目地区へ伝わったのが始めとされています。主に7月から8月の夏祭りに底抜け屋台を曳き廻して祇園囃子を奏する祭礼行事として、戦後市街地の町内・囃子団体に広がっていきました。
主として鎮守神社の例大祭を母体としたお祭りに氏子各町内が出場し、地元町内を曳き廻して門付けを行ったり、他所の屋台と近接して「引合せ」といわれる囃子の競演を行います。
囃子
囃子の道具は、床の張られていない屋台の正面に締太鼓二つ、脇に大太鼓一つが取り付けられます。屋台の内側に囃子方として、締太鼓2人、大太鼓1人、屋台の背面に笛数名、鉦数名が、それぞれ歩行演奏(徒囃子)を行います。囃子は山車で演奏する屋台囃子とは異なり、直径60センチメートル近い大きな胴回りの大太鼓を用いる威勢の良い調子の「祇園囃子」を演奏します。
屋台巡行中に囃すゆっくりで賑やかな曲調の「道中囃子」と、門付けや引き合せなど屋台が立ち止まった際に囃すテンポの速い激しい曲調の「シャンギリ」という曲に大別されます。屋台囃子とは異なり、面踊り等の踊りは行われません。
底抜け屋台
当初の底抜け屋台は、囲いと屋根だけの簡便軽量なものを数人で担いで巡行する形式でしたが、次第に屋根周りを市松障子で囲んだり、提灯や雪洞を附すなどの装飾が施された結果、重量が増し、車輪を付けて曳行する形態へと変化していきました。
当市で継承されている底抜け屋台の共通する構造は、まず床板を張っていないことが挙げられます。次に周囲を囲う土台に柴垣もしくは腰幕をあしらった腰板を巡らし、6本の柱を建ち上げて、欄間を経て屋根を支える構造になっている点です。屋根については、市松模様の油障子を弧状支輪に展開し、あたかも朝顔が開花した形状の「朝顔形」が最も多く、切妻や唐破風の屋根形状を持つ屋台もあります。土台の四隅に車輪を配し、梶を取り付け、引綱を延ばして曳き廻します。
双柳初代屋台の明治中頃建造が最も古い伝承ですが、資料も含め明治期建造の屋台は現存していません。昭和20年代中盤までに建造された屋台が多く、簡易な造りのため何度か作り直され、現在2代目、3代目の屋台を継承している団体も多いです。
当市で継承されている底抜け屋台は、16団体に16台現存します。このうち、現在も祇園囃子を奏しながら曳き廻しを行っている以下の13団体が認定構成団体となっています。一丁目町内会、二丁目町内会、三丁目自治会、河原町自治会、宮本町自治会、原町自治会、前田自治会、柳原自治会、中山自治会、双柳稲荷神社氏子、本郷自治会、浅間自治会、平松自治会
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更新日:2025年07月08日