中山信吉墓 (県指定・史跡)

更新日:2023年03月07日

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中山信吉(なかやまのぶよし)の墓は、直径約15メートル、高さ4メートルの塚を築き、その上に高さ3メートル余の宝篋印塔(ほうきょういんとう)を置いたものです。信吉は65歳で亡くなったのち能仁寺に葬られていましたが、2年後の寛永21年にこの地に移されました。宝篋印塔には、「源盛院殿道立心圓居士 寛永十九壬午歳正月六日」・「従五位下丹治信吉中山備前守」の銘が刻まれています。

信吉は、豊臣秀吉の小田原攻めの際、八王子城で自刃した中山勘解由家範(なかやまかげゆいえのり)の次男として天正4(1576)年に生まれました。後に、兄の照守(てるもり)とともに徳川家康に仕えました。慶長14(1609)年に家康の第11子である頼房(よりふさ)を藩主として水戸藩が創設されると、その付家老(つけがろう)となり1万5千石の知行をあてがわれました。また信吉は頼房の後嗣に光圀(みつくに)〔水戸黄門のモデル〕を推挙したことでも知られています。

中山家の当主は、信吉以降も代々水戸藩の付家老を務めました。智観寺には2代信正、4代信行を除く中山家の当主およびその妻、分家の人たちが葬られており、この中山家の墓域は近世の大名墓として貴重な遺構ということができます。

なお、この中山家を縁に飯能市と中山家の領地があった茨城県高萩市との間で平成15年に友好都市提携が結ばれています。

中山信吉墓

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